江戸での活躍
 ~斉彬の死去~
 


 安政の大獄と斉彬の死去
大老となった井伊直弼は、朝廷や親藩、外様の意向を無視して独裁政治を断行した。まず勅許無しに日米修好通商条約に調印したのだ。
これに激怒した徳川斉昭や松平慶永、尾張藩主・徳川慶勝が江戸城に怒鳴り込みに行ったが、井伊大老は逆に登城日でないのに登城したと隠居・謹慎・登城停止を言い渡した。さらに協議をせずに将軍継嗣を紀州の慶福に決定したと発表する。
西郷は斉彬上洛の準備のため大坂の藩邸にいたが、吉井友実らと密かに京都へ入り、梁川星厳と情勢を話し合った。星厳は幕府が勅許を得ることなく条約に調印した事に憤っていた。
西郷は遂に決意し、斉彬に「兵を率いて上洛されたし」と伝令を送る。しかしその頃、斉彬は瀕死の状態であった。天保山で上京の兵を自ら調練していて倒れ、激しい下痢に悩まされたという。おそらくコレラと思われ、発病後わずか12日で急死してしまったのだ。
京都でこの悲報を聞いた西郷は、胸が張り裂ける思いだったに違いない。忠愛する藩主を失って絶望し、殉死する覚悟を決めていた。しかし「殉死することは忠義ではなく、斉彬の遺志を果たすことこそ真の忠義である」と諫めたのが月照だった。西郷は月照の言葉に感動して涙を流す。そして気を取り直し、斉彬の志を実現すべく決意を新たにしたのだ。
 戊午の勅許裏目に
西郷が斉彬の指示で京都や大坂を走り回っていた頃、水戸藩士や水戸藩と深い関係を持つ薩摩藩士が西郷とは別の方法で幕府に圧力をかけようと画策していた。勅許無しに条約を結んだ幕府を責めるとともに、幕政改革を迫る密勅を水戸藩に下そうとしたのである。西郷はこの計画に希望を見出そうとした。西郷は近衛家を動かし、近衛忠煕から水戸藩主宛の手紙を託されて江戸へ向かった。
しかし、すでに幕府の弾圧は水戸藩にも及んでおり監視の目は厳しく、水戸の藩論も次第に幕府に恭順か否かで真っ二つに割れている状態であった。結局この密書を届けることはできなかった。
だが結局、密勅は別ルートで水戸藩に下された。これが「戊午の勅許」である。しかしこれは幕府に対して何の効果もないばかりか、逆に幕府の態度をより一層硬化させる結果となってしまった。井伊大老は水戸藩が朝廷と組んで幕府に謀反を企てているとして、密勅に尽力した藩士・浪士たちを徹底的に弾圧したのである。
 月照の保護
この頃西郷は、諸藩連合によって朝廷を動かし、井伊大老の追い落としを計画していた。そのため諸藩の志士と交わり、また有馬新七や有村俊斎、伊地知正治と会合している。
そんな矢先、安政の大獄が始まった。弾圧された志士第一号は梅田雲浜である。雲浜は小浜藩主で、将軍継嗣問題や戊午の勅許に関与したため幕吏に逮捕された。これ以降、その弾圧は範囲を広げ、厳しさを増していったが、その追っ手は月照にも迫りつつあった。
西郷は近衛家に呼ばれ、奈良の寺に匿ってほしいといわれたが、西郷はより安全な場所として薩摩を選んだ。伏見まで月照を送り、大阪までは有村に依頼する。京都に戻った西郷は、水戸藩留守居役の鵜飼吉左衛門を訪ね、鷹司右大臣を動かそうとした。さらに井伊大老の意を受けて京都に着任する老中・間部詮勝を牽制するため、参勤交代から途中の島津斉興の兵力を京都守護に宛てようと近衛忠煕に進言した。斉興は幕府の許可なしにそのような事はできないと難色を示したが、西郷の尽力によって何とかその兵力を大坂藩邸にとどめておくことに成功する。
そして西郷は、幕府の追及が迫る月照の安全を確保するために大坂を出発、薩摩へ向かった。




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