道明寺迎撃戦
 ~伊達政宗との攻防~
 


 後藤又兵衛奮戦及ばず
大和方面軍の前半部分、水野・本多・松平の諸隊は、単独では戦闘力を発揮できない大和・伊勢・美濃の小大名を譜代大名の下に編合した寄せ集め部隊である。しかし全体に実戦経験が低下していたこの時期、寄せ集めの編合部隊が額面通りの戦力を発揮するわけがなかった。水野勢はその緩慢で集中を欠いた運動ゆえに後藤隊に撃ち負け、動揺したところを突き崩されてあっけなく敗走している。先手の奥田忠次は討死し、松倉重政も数十騎の馬廻りに守られて敗走した。続いて攻めあがった本多勢、松平勢も次々に蹴落とされ、小松山の山麓は徳川方の敗兵と新手が入り乱れて大混乱に陥った。
後藤隊の孤軍奮闘は数時間にわたって徳川方を翻弄したが、伊達政宗率いる1万余の大軍が押し出してきたことで戦局は一変する。数千挺規模の旗本鉄砲隊を擁する伊達勢の猛射を浴び、未明からの戦闘で消耗しきっていた後藤隊の前線はひとたまりもなく敗走する。後藤はかろうじて踏みとどまったが、又兵衛の采配をもってしてもこの圧倒的兵力差はいかんともしがたかった。僅かな馬廻りとともに逆襲を陣頭指揮していた又兵衛が敵弾に倒れると、後藤隊は総崩れとなって潰走した。
 徳川方が道明寺方面を制圧
後藤隊を形成するはずだった薄田隼人ら1700の後続部隊がようやく、しかしばらばらに戦場に姿を現したのは、すでに霧が晴れ、又兵衛の死で後藤隊が潰走した頃のことだった。後藤隊の残余は、道明寺村から誉田村にかけて、散り散りになって潰走していた。それを追尾する水野勢は奈良街道を西進してすでに石川を越え、先頭集団は段丘を登って続々と押し出していた。道明寺に進出した薄田隊は、その水野勢に真っ向から前進、大胆にも正面攻撃を強行した。しかし本多勢と松平勢が水野勢の南に展開し始めている状況で、一撃離脱の急襲を試みようとするのは到底正気の沙汰ではない。30倍以上の敵に正面から挑みかかった薄田隊は、津波のように押し寄せる徳川方に飲み込まれて潰走し、薄田隼人は三尺三寸の太刀を振るって数十人を血祭りにあげた末に討死した。
又兵衛の指揮下に配属されるはずだった諸隊は、この薄田隊の無謀な突進に巻き込まれて次々に敗走した。道明寺方面は昼頃までに完全に徳川方に制圧され、さらに遅れて到着した明石掃部隊2000は、敗兵を追撃する徳川勢を牽制するのが精一杯という状況になっていた。

真田勢の伏撃
一方、後藤隊を撃破して小松山を制圧した伊達隊の先鋒隊は、その残兵を掃討しつつ尾根を越え、山麓を西に移動中だった松平勢後尾を避けて、そのまま石川を越えて進撃していた。政宗は水野・本多・松平の諸勢で混み合う道明寺方面を避け、誉田陵(応神天皇陵)の南を迂回して、逐次到着している豊臣方後続部隊を一挙に包囲殲滅しようと考えていたのである。
石川を渡った伊達勢の先鋒隊は、正面にそびえる誉田陵をかわすために左に折れ、そのまま河岸段丘の上り坂を誉田村方面に進撃した。この段丘のために、石川とその両岸とは比較的高低差が大きくなっており、川を渡河して段丘を上りきるまで、通過する部隊は一時的に前方の視界を遮られる。そして再び視界を回復した時、先鋒隊を指揮していた片倉小十郎重綱は、赤いまばらな線を目にすることになった。幸村率いる真田隊の前衛部隊である。
ようやく戦場に到着した幸村は、前方に素早く物見を立てていた。北の道明寺方面は先着諸隊が総崩れとなっていたものの、明石勢などが粘りを発揮してかろうじて持ちこたえていた。問題は真田隊の正面である。先着した部隊がことごとく道明寺方面の押さえに向かった結果、全く無防備だったのである。幸村は段丘が渡河部隊の視界を遮ることを利用し、誉田陵の陰に別動隊を潜伏、囮を兼ねた本隊を誉田村に進出させた。




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