道明寺迎撃戦 ~伊達政宗との攻防~ |
後藤隊の孤軍奮闘は数時間にわたって徳川方を翻弄したが、伊達政宗率いる1万余の大軍が押し出してきたことで戦局は一変する。数千挺規模の旗本鉄砲隊を擁する伊達勢の猛射を浴び、未明からの戦闘で消耗しきっていた後藤隊の前線はひとたまりもなく敗走する。後藤はかろうじて踏みとどまったが、又兵衛の采配をもってしてもこの圧倒的兵力差はいかんともしがたかった。僅かな馬廻りとともに逆襲を陣頭指揮していた又兵衛が敵弾に倒れると、後藤隊は総崩れとなって潰走した。
又兵衛の指揮下に配属されるはずだった諸隊は、この薄田隊の無謀な突進に巻き込まれて次々に敗走した。道明寺方面は昼頃までに完全に徳川方に制圧され、さらに遅れて到着した明石掃部隊2000は、敗兵を追撃する徳川勢を牽制するのが精一杯という状況になっていた。
石川を渡った伊達勢の先鋒隊は、正面にそびえる誉田陵をかわすために左に折れ、そのまま河岸段丘の上り坂を誉田村方面に進撃した。この段丘のために、石川とその両岸とは比較的高低差が大きくなっており、川を渡河して段丘を上りきるまで、通過する部隊は一時的に前方の視界を遮られる。そして再び視界を回復した時、先鋒隊を指揮していた片倉小十郎重綱は、赤いまばらな線を目にすることになった。幸村率いる真田隊の前衛部隊である。 ようやく戦場に到着した幸村は、前方に素早く物見を立てていた。北の道明寺方面は先着諸隊が総崩れとなっていたものの、明石勢などが粘りを発揮してかろうじて持ちこたえていた。問題は真田隊の正面である。先着した部隊がことごとく道明寺方面の押さえに向かった結果、全く無防備だったのである。幸村は段丘が渡河部隊の視界を遮ることを利用し、誉田陵の陰に別動隊を潜伏、囮を兼ねた本隊を誉田村に進出させた。 |