道明寺迎撃戦
 ~各個撃破される~
 


 ままならぬ行軍
豊臣方の二つの迎撃軍は、6日未明も払暁に近いころになって、ようやく平野の宿営地を出撃することになった。しかし、折から立ち込めた濃霧で部隊間の連絡が失われ、各隊は勝手に行軍を開始し、行軍途上で散り散りばらばらになってしまった。それぞれの先鋒は進軍開始を後続部隊に連絡しているはずだが、おそらく伝令が濃霧で後続部隊をすぐに発見できず、各隊の伝令が同じ錯誤を繰り返すうちに、出撃時間に大幅なずれが生じてしまったのだろう。
さらに行軍路の誤認という問題があった。河内口迎撃軍先鋒の木村勢は途中で沼地に突き当たり、若江方面に進路を変える羽目になった。同様に、大和口迎撃軍の毛利・真田の両勢も、それぞれひどく遠回りして戦場に到着した可能性がある。真田勢は最終的に誉田村に進出しており、大和側を超えてから東に折れるタイミングを誤って南に大回りしたと考えられる。逆に毛利勢は八尾に向かう河内口迎撃軍の長宗我部後尾を先行部隊と見誤り、大和川の南に進出するのが遅れたのではないか。
 又兵衛見誤る
それでも、まとまって行動できた毛利勢や真田勢はまだましだった。この作戦のために4500ほどに増強された大和口迎撃軍先鋒の後藤勢は、霧の中で四分五裂になってしまったのである。又兵衛直属の後藤隊は霧で道を誤ることもなく、予定通り未明のうちに道明寺の集落に到達した。しかし、後続の諸隊は大きく二つの集団に分かれてしまい、薄田隼人ら4部隊1100は単に遅れただけのようだが、北川宜勝ら600は道を間違えて南に遠回りしていたらしい。道明寺村は最後の集結地点で、ここを過ぎれば戦闘区域に入ることになる。目標の国分までわずか半里(2キロ)ほどしかない。後藤勢の全部隊がここで集結することは必須だった。
しかし、自身の統率力の高さゆえに孤立した又兵衛は、ここでさらに後続部隊の遅れを過小評価するという誤りを犯すことになる。又兵衛は自隊がほとんど遅滞することなく到着したことから、後続の遅れはさほど大きなものではないと判断。単独での国分進出を決意した。かくして又兵衛最後の戦いは、霧の中で無謀な単独出撃とされてしまうのである。

徳川方に一撃をくらわす
しかし、後藤隊が単独で国分の隘路を扼すべく前進したときには、既に国分は徳川方大和方面軍先鋒の水野勝成勢に埋め尽くされていた。しかもその後方からは、本多忠政勢・松平忠明勢などが続々と押し出していたのである。又兵衛はこの段階で方針を変更した。伏撃が失敗に終わった以上、国分の占拠にこだわっても意味はない。兵力3800の水野勢だけならともかく、5000の本多勢や、4000の松平勢もすでに国分の隘路を抜け出ている状況で、単独で進出した後藤隊の2800に可能なことは限られてくる。又兵衛は国分村と大和川の支流の石川に挟まれた尾根の北端付近、小松山と呼ばれる小高い頂を背にして街道を扼し、後続到着まで自給するという消極的ではあっても、常識的な判断を下し、それを直ちに実行した。
小松山に進出した又兵衛は手勢を二段に分け、前隊を麓付近に、後隊を頂付近に配置した。前隊が敵と接触した場合に、後隊が進み出てその翼側に攻めかかり、敵を撃退したらそれぞれ元の位置に復帰する。その繰り返しで敵の攻撃を鈍らせ、時間を稼ぐつもりだったのである。そしてこの戦術は、徳川方に対してかなりの効果を上げることになるのである。




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