道明寺迎撃戦
 ~遅きに失した迎撃戦~
 


 深刻な弾薬不足
冬の陣以来慢性的な弾薬不足に悩まされてきた豊臣方は、講和の間にその補充を試みたが、その手配は大幅に遅れていた。堺との関係が悪化していたからである。弾薬の取引を停止されてしまえば、優先順位の低い部隊への供給を停止し、必要十分な弾薬を特定の部隊に集中するしかない。兵力の大半は、出撃できる状態にはなかったのである。
稼働兵力の不足は、豊臣方の作戦を大幅に制限した。豊臣方は4月26日に軍勢を進発させ、前日に進撃を開始していた河内街道の徳川方前衛軍を迂回、大和から北上して伏見に突入し、徳川方の後方を攪乱しようとした。しかしこの任務の投入された兵力はわずか数千でしかなく、しかも徳川方は奈良にも軍勢を進出させていた。作戦が実行不可能となった時点で、手不足の豊臣方は大和に派遣した軍勢を和泉方面での作戦のために転進させた。
しかし、4月28日に二つの軍勢を投じて実施されたこの作戦は、和泉国内だけでも堺焼き討ちと岸和田城攻略の二つの任務が設定され、その上さらに一揆勢と連携した紀伊侵攻までが組み合わされていた。浅野勢が北上してきた場合には、当然それも迎撃しなければならない。四つの任務が与えられた無理な作戦は、豊臣方の先方部隊を敗退させ、塙団右衛門らを討ち死にさせる結果となった。
 一か八かの迎撃作戦
それでも、堺の町を焼き討ちしたことで弾薬不足がかなり解消されたことから、豊臣方は新たな作戦を打ち出した。兵站の改善を優先してやむを得ず無防備にした河内方面で、河内街道と奈良街道を分進する徳川方を急襲すべく、俄かに迎撃作戦が立案された。
このとき若江方面は、冬の陣での溢水作戦の名残で未だに沼沢地が散在していた。河内街道を進撃する徳川方の軍勢はそれを迂回しようとするはずで、したがって奈良街道を進撃する軍勢と道明寺付近で合流するという想定が成り立つ。牢人諸将の提示した作戦案は、主力を道明寺付近に進出させ、その一部をもって奈良街道を国分の隘路口で封鎖し、八尾に有力な側撃部隊を展開して、河内街道を南下する徳川方を殲滅するという大胆なものだった。十分な兵力があれば、成功の可能性はそう低くはない。成功しさえすれば、徳川方の攻勢を遅らせることができただけでなく、運次第で家康・秀忠父子を討ち取れるかもしれなかった。無謀とばかりは言い切れない計画だった。

出撃が大幅に遅れる
問題は投入兵力だった。それぞれ数千の兵を擁して岸和田に張り付いている大野治房・治胤兄弟の軍勢は浅野勢への対抗上、引き揚げられない。播磨方面への備えも兼ねた大坂守備兵力の七手組1万余も動かせない。八尾に向かう河内口迎撃軍には最も兵力が多い木村重成と長宗我部盛親勢を中核とする1万ほど、道明寺に進む大和口迎撃軍には後藤又兵衛や真田幸村らの雑多な部隊からなる1万数千を充てたが、総兵力5万余の豊臣方にはまだ1万以上の兵力が残っていた。この乾坤一擲の栄撃作戦には、3万以上の兵力を投入できたはずなのである。だが、機動作戦の経験がほとんどなかったことから、譜代衆には野戦軍を指揮統制する力がほとんど失われていた。それに加えて、堺で接収した弾薬を大坂に輸送し、それを各部隊に配分する手際も非常に悪かった。
出撃の準備は大幅に遅れ、豊臣方は出撃を6日まで見合わせたが、それでもなお残りの1万余は平野に集結させることさえできなかった。慶長20年(1615)4月は大の月で晦日は30日。徳川方大和方面軍の活動が確認された4月27日からすでに9日がたっている。豊臣方は9日間も空費した挙句、わずか2万数千の迎撃軍を進発させることになってしまったのである。




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