1・偽りの握手から激突へ
弱体化していたソ連軍

    大粛清による弱体化
戦争など起こってほしくない。いや、起こってはならないのだし、起こるはずがない。スターリンを現実逃避にも近い願望にしがみつかせた理由は、もう一つあった。当時のソ連軍は著しく弱体化していたのだ。1939年から40年のフィンランド侵略、「冬戦争」と呼ばれた戦いで、はるかに劣勢な相手に、ソ連軍は苦戦を強いられている。この戦争で暴露された通り、ソ連軍は劣悪な状態にあった。その原因は、1937年に開始された「大粛清」にある。
ロシア革命を実現させた指導者であるヴラジーミル・I・レーニンが没した後、スターリンンの権力基盤はなお不安定なものであった。古参の共産党幹部や政府指導者のなかにも、隙あらば反逆に踏み切り、自分を追い落とそうとしている者が多数いる。そのような強迫観念に囚われたスターリンは、内務人民委員部麾下の秘密警察を動員し、おのが先輩や仲間をも含む、ソ連の指導者たちを逮捕・処刑させた。粛清は、文官のみならず、赤軍幹部にもおよび、その多くが「人民の敵」として、あるいは銃殺され、あるいは逮捕投獄されていった。
この大粛清が示す数字は、見る者を慄然とさせる。1937年から38年にわたって、3万4301名の将校が逮捕、もしくは追放された。そのうち、2万2705名は、銃殺されるか、行方不明になっており、実態は今も判然としない。また、高級将校ほど、粛清の犠牲者が多くなっており、軍の最高幹部101名中91名が逮捕され、その中の80名が銃殺されたという。軍の最高階級であったソ連邦元帥も、当時5名いたうちの3名が銃殺された。「縦深戦」なお、時代に先んじた用兵思想を完成させたことで知られるミハイル・N・トゥハチェスキー元帥も、その一人である。
    軍の柱を失ったツケ
軍の脊柱は将校であるとは、しばしばいわれることである。もし、それが真実であるとするならば、スターリンは自らソ連軍の背骨をたたき折ってしまったといえる。事実、大粛清の影響は深刻だった。独ソ開戦の前年、1940年夏に、多数の現場部隊を査察した赤軍歩兵総監は、次のように報告している。
225個連隊の指揮官中、陸軍大学校卒業者は皆無、各種軍学校を卒業した者25名、ほか200名は将校速成課程を受けて任官した者ばかりである。1940年初頭の時点で、師団長の7割以上、連隊長の約7割、政治委員と政治部隊長の6割は、その職に就いてから1年ほどの経験しかない。
つまり、大粛清は、高級統帥、すなわち大規模部隊の運用についての教育を受けた将校、ロシア革命後の内戦や対干渉戦争での実践経験を有する指揮官の多くを、ソ連軍から排除してしまったのである。おりしも、1938年に開始された第三次五か年計画によって、物的軍備は拡充の途上にあった。しかし、将校団が壊滅したとあっては、いかに兵器や装備を整えようと、精強な軍隊を保持する事は望めない。
アメリカの軍事史家デイヴィット・M・グランツは、大著「よろめく巨人」でこうしたソ連軍の窮境を克明に論証した。巷間流布されていた、ドイツのソ連侵攻は、スターリンの先制攻撃に対する予防戦争だったとする説に反駁を加え、そのような主張は軍事的に成り立たないと結論付けたのである。
    自ら弱体化を招いた事がソ連の悲劇に
いうまでもなく、スターリンは自ら命じた粛清によって、己の軍隊を骨抜きにしてしまったことを承知していた。数々の実戦経験を積み、宿敵フランスを降したドイツ国防軍に、ソ連軍が作戦・戦術的にはいまだ太刀打ちできる状態にないことも認識していたに違いない。したがって、このままドイツとの戦争に突入すれば、ソ連の崩壊は必至であろう。そう予想したがゆえに、スターリンは、目前に迫ったドイツの侵攻から眼を背け、すべてはソ連を戦争に巻き込もうとするイギリスの謀略であると信じ込んだ。あるいは、そう信じたかった。不愉快な事実を突きつけられたにもかかわらず、起こってほしくないことは起こらないとする倒錯した「信仰」のちりことなったのだ。
けれどっも、現実を拒否した独裁者は、尋常でない災厄を呼び込もうとしていた。こうした、ソ連にとっての悲劇を一層深刻なものにしたのは、大粛清などによる権力集中によって、ソ連指導部からは異論が排除され、スターリンの誤謬や先入観、偏った信念が、そのまま国家の方針となったことであった。
1941年初夏、ソ連国民は、それがために、一部は回避し得たはずの過酷な試練にさらされることになる。





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