1・偽りの握手から激突へ
スターリンの逃避

    机上の機密文書
ソ連の最高指導者スターリンは、机上の機密文書に、眼を通したという意味の×印を書き入れた。
 
東京 1941年 5月30日
ベルリンは、オット(駐日ドイツ)大使に、ドイツの対ソヴィエト攻撃は6月後半に開始されると伝えてきた。オットは95%の確率で戦争は開始されると伝えてきた。

スターリンが読んでいたのは、独紙「フランクフルター・ツァイトゥング」の特派員として来日し、当時の近衛文麿政権中枢部に深く食い込んでいたソ連の情報員、リヒャルト・ゾルゲの秘密報告であった。独ソ開戦のおよそ3週間前に、侵攻近しとの警告を伝える。ソ連にとっては貴重な情報である、そのはずだったが・・・。
    情報を無視したスターリン
スターリンの執務室には、このゾルゲ電のみならず、独ソ戦が目前に迫っているとの警告が多数あげられていた。にもかかわらず、スターリンは耳を貸そうとはしなかった。無視されたのは、ゾルゲの報告だけではない。世界各国に張り巡らされたソ連のスパイ網がモスクワに送り届けた情報は、一説によれば、百数十件にも及んだとされる。だがスターリンは、1941年初夏に独ソ戦が迫っていることを告げる情報を一切信用せず、国境守備にあたっている諸部隊に警告するどころか、逆に挑発的行動をとるなと戒め続けた。
独ソ開戦の5日前、内務人民委員部(NKVD)から、侵攻は切迫しているとの警告を含むスパイ情報を受け取ったスターリンは、このように応じている。
「ドイツ空軍総司令部の「情報源」など、お話にならん。そんなものは「情報源」どころか、詐騙情報(デイジンフォルマートル)を流しているやつにしぎないのだよ」
この錯誤の対価は高くつく。スターリンが強調した手かせ足かせのおかげで、ソ連軍部隊は無防備かつ無警戒のまま、ドイツの侵略に直面することになったのである。ドイツ軍の攻撃は一大奇襲となり、ソ連軍は一時は崩壊を危惧されるほどの大損害を被った。イギリスの戦時宰相ウィンストン・チャーチル曰く、スターリンは「近代の戦いの中で、侵攻を受けたいかなる指導者よりも、危機が切迫していることについて、攻撃開始の日時までも明らかになるような、はるかに多くの、なおかつ、より質の高い情報を得ていた」にもかかわらず、なぜスターリンは警戒措置を取らなかったのか。当然生じる疑問である。
    根強い対英不信
まず考えられるのは、イギリスへの強い猜疑心である。スターリンにしてみれば、独ソ不可侵条約(1939年締結)以来ドイツとの友好関係は、悪化しつつあったとはいえ、ポーランド分割をはじめ、独ソ双方に大きな利益をもたらすものであった。ヒトラーが、その利益をむざむざ放棄するわけがない、との思い込みである。
一方、英仏独伊の四か国のみでチェコスロバキアの領土割譲を決めたミュンヘン会談(1938年)以来、西欧資本主義諸国、とりわけイギリスは、ソ連をないがしろにするばかりか、敵対的な態度をとってきた。少なくとも、スターリンはそう考えていた。イギリスはドイツを対ソ戦に誘導することを企んでいるとさえ、疑っていたのである。
そうした猜疑心ゆえに、各国からもたらされる情報、とくにイギリスからのそれは、すべて謀略であると、スターリンは決めつけた。彼の眼を曇らせていた要因の一つは、ミュンヘン会談以来の資本主義諸国、とりわけイギリスに対する不信という先入観であった。





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