ナポレオン伝説の虚実
~故郷コルシカ島~
 

 コルシカ島
ナポレオンの故郷は地中海に浮かぶコルシカ島である。コルシカはイタリア語、コルシカ語の呼称である。コルシカは現在では二県からなるフランス領で、フランス語ではコルスという。多くのフランス人にとって、コルシカは遠隔の地、特異な地、そして反逆の地である。
コルシカは第二次世界大戦末期には、ドイツ軍に対してマキと呼ばれる常緑雑木林に潜んで、激しい抵抗運動をしたことでも知られる。コルシカの抵抗運動組織だけではなく、この時期のフランスの対独抵抗運動の組織は一般にマキと呼ばれた。
コルシカは島の中央部に夏でも残雪をいただく標高2000ⅿ級の山々が聳えるが、大部分はマキに被われたさほど高くない岩山の島である。古来、反乱者や犯罪者は官憲の追っ手を逃れてマキに身を隠した。そのようなマキにコルシカ人は親しみを持つ。土産物屋には、マキという香水が売られている。
夏、コルシカは観光客でにぎわう。紺碧の海があり、山があり、棕櫚の木陰や夕陽に染まった小舟の浮かぶ浜辺がエキゾチックで、治安を心配しながらも、この西海岸の孤島を訪れる人々は多い。パスティアとアジャクシオの両県郡は港町で、夜はバー、キャバレー、カジノがにぎわい、歓楽街の様相を見せる。
 英雄パオリ
コルシカは「皇帝の島」と呼ばれ、ナポレオンの出生地として知られるが、ナポレオンの栄光はこの島とは無縁である。この島は強国の侵略、支配に苦しめられ、しばしば血に染まる悲劇の歴史があった。
ヨーロッパ古代は、地中海を舞台とした地中海世界である。この西地中海の要衝の地をギリシャ人、エルトリア人、カルタゴ人が見逃すはずがなく、植民を巡って争いが耐えなかった。西暦前2世紀半ば、ローマは西地中海の強国カルタゴを亡ぼすと、この島を支配下に置いた。しかし安定は長く続かず、西ローマ帝国が崩壊すると、ヴァンダル人やゴート人が侵略してきた。その後支配者は、ビザンツ帝国、ランゴバルト王国、ローマ教皇と代わる。この間サラセン人が侵略を繰り返した。中世盛期にはイタリアの強国に支配された。最初が都市国家ビサ。続いて13世紀末からはジェノヴァ共和国の支配下となった。
ジェノバの支配は長く、地中海を舞台に栄えた通商国家であった。しかし16世紀には、大西洋貿易の発展から地中海貿易が衰え、それに伴ってジェノヴァ共和国も次第に勢威を失っていく。そして18世紀に入ると、コルシカ人は宗主国の衰亡を見越して解放運動を行い、1755年にはコルシカ人政府を樹立。コルシカの革命である。この政府は島の中央山岳地に位置するコルテに置かれ、独自の政府、軍隊、通貨、司法機関を持ち、ジェノヴァ共和国と事実上二重政権になった。
この政府の最高指導者がパスカル・パオリであった。コルシカ独立の英雄として、独立の父、祖国コルシカの父と呼ばれる。コルシカの英雄はナポレオンよりむしろこのパオリであろう。
この時期、ジェノヴァ共和国は国力が衰え、植民地を維持することさえも重荷になっており、1768年5月、ヴェルサイユ協定によってフランス王国にコルシカを事実上売ってしまった。
コルシカの支配者は大国のフランスに代わった。フランスは多数の官吏と強力な軍隊を送り、植民地支配を強めた。そして1769年5月、ポンテ・ノヴォの戦いで、パオリの率いるコルシカ軍を撃滅した。この時期、ナポレオンの父シャルル・ボナパルトはコルシカ軍に加わっていた。母のレティツイアはナポレオンを腹に宿していた。ナポレオン誕生はこの戦いの3か月後のことである。
パオリをはじめコルシカ政府の指導者は、敗北後すぐにイギリスやイタリアに逃れた。フランス軍は全島に掃討作戦を展開した。マキに逃れた抵抗者の家は壊され、残った家族は立ち退きを強制された。彼らを匿う者は逮捕され、漕役刑に処されたが、それでも抵抗運動は1774年まで続いた。
 孤立するナポレオン
弾圧は凄惨を極めた。が、その一方で、コルシカ人の名望家を懐柔するために貴族制を創設した。貴族は経済的特権の他に、行政、司法、軍、教会の要職を与えられた。またフランスと交渉にあたる貴族十二人制が創設された。貴族の子弟には、フランスで教育を受けられる奨学金が与えられた。
ナポレオンが兄弟や妹たちとともに、フランスに留学できたのは、父のシャルル・ボナパルトが、パオリなどが外国に亡命したのち、フランス軍に帰順し、その後、フランス支配の協力派として貴族に叙せられたからであった。ナポレオンは1779年、9歳にしてフランスに渡り、兵学校で学んだ。フランス革命が始まる1789年には、すでにパリの士官学校を卒業していて、砲兵中尉として軍務に就いていた。
革命はパリから遥か隔たったコルシカをも巻き込んだ。植民地体制は崩壊し、コルシカ県として政治的に平等な権利を持つようになったし、パオリを始め独立運動者も帰ってきたが、選挙や宗教問題、国有財産の売却、戦争の勃発、国王ルイ16世の処刑などを契機に、島民はパオリ派とフランス派=革命派に分裂して抗争した。島民の大多数はパオリ派だった。ナポレオンは革命派の指導者であった。そして両派の対立が高じ、1793年5月、暴動化した島民大衆に襲撃され、ボナパルト一家は命からがら島を脱出した。
ナポレオンはこれ以後、コルシカを祖国と呼ぶことはなかった。1799年エジプト脱出の際に暴風を避けてアジャクシオに寄港した以外は、皇帝になってもコルシカに戻ることはなかった。コルシカの伝統的慣習を壊し、フランス語を話すナポレオンは、島民にはもはやよそ者であった。
学校教育やテレビを通して、コルシカでフランス語が普及したのは最近のようで、最も今でも漁民や農民、牧童はコルシカ語は日常言語という。コルシカ語はイタリア語に近い。
コルシカ人はコルシカへの愛着が強い。家族、親族同志の結び付きも強い。老後は島に戻ってきて暮らす人が多いという。コルシカは自治的性格も強く、本土と税制が異なり、煙草やガソリンが安い。そして、コルシカ島民のナポレオンへの評価も微妙のようだ。




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