ナポレオン伝説の虚実
~率いる身として ②~
 

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士官学校へ進み、砲兵士官となって世に出てからも、ナポレオンの勉強ぶりは衰えない。
彼は、物事を眼前の世界、あるいはフランス国内だけで考えるのではなく、国境の枠を超えた広い視野でとらえるようになっていく。このため、不本意な転属を命じられると、それを拒否したり、不遇なポストに置かれると、フランスを出てトルコ軍の雇われ士官になる事を考えてみたりもする。ナポレオンの心は早くから、フランスの枠を超えていたのだ。
だが彼は、単に読書によって人格形成を考えたのでのみではない。彼は時には幼児のように親しみやすい笑顔を見せ、また無関係の人々の中にいきなり入っていくという身軽さ、行動力(フットワークが軽いというべきか)があり、これによって人気が出ただけではなく、普通では得られぬ情報収集が可能になり、彼の人間の幅を広げることになった。
彼は「暇さえあれば地図を見ている人間」と言われるほど、これから向かおうとする土地に関心を持ち、戦術上で必要な情報だけではなく、そこに住んでいた人やそこを通っていた旅人にも会って、土地の様子や暮らしぶり、人々の気質について訊き出すのが常であった。
 話し込むナポレオン
城山三郎氏著の「彼も人の子ナポレオン」によると、ナポレオンが流されたエルバ島において、彼は島流しの身でありながらその島の書物について詳しく勉強し、島へ着くと、公式の上陸行事を待つ間に、小舟を出して、目についた農園主の館へ乗り付け、ワインの醸造場へ顔を出したりする。
そうかと思うと、畑へ飛び降りて、牛を使っての耕作を試みたり、山奥の教会の牧師を訪ねて、長時間話し込むなど、多彩な人々と気楽に出会い、それぞれの人物の得意の領域についての話を聞こうとしている。言い換えれば、何事につけても、専門家の意見をまず求める、と言ったところがあった。
また、ナポレオンが伝記で学んだ大王たちの多くは、学者や、いわゆる賢人を重用しているが、彼もそれを見倣うように、学者たちに気を配り、彼自身も軍人でありながら、早い時期に学士院入りしている。
エジプト遠征に当たって、かなりの数の学者たちを同行したのは有名な話だが、エジプトに向かう船では、ナポレオンは将軍たちよりも学者に良い船室を与え、さらに毎日「エジプト学士院」なる勉強会を開かせた。
その第1回目のテーマは、私有財産の起源について。ナポレオンの命令で、将軍たちも出席させられていたが、居眠りしていびきをかき、退場させられるものもいた。
 敵対者の意見を吸収する
王朝末期のフランス財政を支え、穏健な改革を勧めた政治家にネッケルという人物がいた。彼は、ナポレオンが独裁政治へ向かおうとするのに対し、その娘のスタール夫人とともに、かなり厳しい非難を浴びせ続けた。
ところが、そのナポレオンがアルプス越えで北イタリアへ攻め込むにあたって、大軍を率いてネッケルの住むスイスのジュネーブ付近を通過したのだ。その際、ナポレオンは自らこのネッケルを訪問、2時間にわたって話し込んでいる。
二人の立場は敵対関係同然であったが、対談が終わったとき、ネッケルはすっかり気分を良くしていたと、スタール夫人は報じている。具体的な話の内容は不明だが、少なくともナポレオンは論戦を挑むというよりは、政治家、特に財政の専門家としてのネッケルの意見を熱心に聴こうとしたのだろう。
天下分け目の決戦に出ようとする直前のことである。にもかかわらずナポレオンは眼前の事を超越し、国家の先々の運営の為に先輩の意見を吸収しておこうとしたのだ。
こうした不断の心がけによって、彼は大いなる統率者への位置をさらに踏み固めていくことになった。




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