仏教伝来まで |
初めて仏教が伝えられたとき、日本の朝廷において仏教は外来の神に関わる信仰として受け止められていた。仏像がもたらされたとき、欽明天皇は、それを祀るべきかどうかを臣下に問うた。「日本書紀」では次のように記されている。 (欽明天皇)「然れども自ら決むまじ」。蘇我の大臣稲目宿禰奏して曰さく「西蕃の諸国、もっぱら皆礼う。豊秋日本、一人背かんや」と申す。物部大連中臣鎌子、同じく奏して曰さく「我が国家の天下に王とましますは、恒に天地社稜の百八十神を以て春夏秋冬、祭拝りたまうことを事とす。方に今改めて蕃神を拝みたまわば、恐るらくは、国神の怒りを致したまわむ」と申す。 この記事を見るにつけ、天皇は自ら祀ることをためらったことがわかる。それは天皇が祀ることのできる神は自らの祖先神、すなわち天照大神のみであり、他の神を祀ることはできないという慣習に従ったからと考えられる。
蘇我氏の邸宅のあった向原の地からは、難波津は大和川を下ってもかなり遠く、飛鳥の地からわざわざ難波津まで運んだ理由があったと思われる。それは、仏像は外国からやってきた疫神とされ、外国への窓口であった難波津まで運ばれ、もとの国に帰っていただこうとして難波津に流されたのではないかと思われる。 その後、しばらくの間は、正史の上に仏教の記事は登場しない。朝廷も天皇も、どう対応すべきか思慮していたのだろう。だがその間、民間レベルでは交流があったようだ。日本人最初の出家者が現れたのもこの時期である。正史に仏教に関わる記事が再び現れるのは、敏達天皇の584年9月からであり、鹿深臣(こうじかおみ)が百済より弥勒石像一体を将来し、また佐伯連が仏像一体を将来している。また、蘇我馬子は仏像を安置するための仏殿を私邸の東方に営み、還俗していた高麗の恵便を播磨国に求め、司馬達等(しめだちと)の娘を尼として、大会の設斎を設けたとの記事がある。司馬達等の娘が善信尼であり、日本人最初の出家者となった。善信尼は戒律を習得しようと考え、百済に渡り、日本人で初めて受戒して帰国したと伝わる。このときには3名の女性が出家したという。それが善信尼、禅蔵尼、恵善尼である。 日本人最初の僧侶が女性であるというのは、巫女信仰を継承している可能性があると言われる。仏教が伝わる以前の日本の宗教は、巫女を中心としたシャーマニズムのようなものだったようだ。 |