奥羽制覇の戦略と戦術
~伊達家の外交戦略~
 

 政宗の真の狙い
伊達政宗の奥羽平定は、天下取りへの第一歩であったという意見がある。確かに戦国時代の終焉にかろうじて間に合った政宗にとって、天下統一という概念はすでに荒唐無稽なものではなく、織田信長という実践者によって既知の概念となっていた。実力行使を辞さない政宗の外交戦略は、それまでの父輝宗までの伊達家の「穏健外交」から一転して攻撃的になったかのように見え、登場の遅れを取り戻そうとするかのように性急に見える。
しかし、伊達家を取り巻く戦略情勢は、必ずしも政宗に選択の余地を与えていたとはいいがたい。むしろ、政宗の政策は父輝宗の路線を継承したものであり、それが不可能となったため独自の路線に展開せざるを得なくなった。奥州を実力で平定しようなどとは、輝宗の後継者となったころは夢にも思わなかったのではないか。ましてや、天下取りなどというのは夢のまた夢で、すでに当時は信長の後を継いだ羽柴秀吉が天下平定への着実に歩みを進めていた。
政宗が、多正面戦争を余儀なくされた原因は、輝宗の死そのものであった。
 輝宗の死の影響
天正13年(1585)10月8日、畠山義継一党を謀殺しようとして逆に拉致された輝宗は、追撃する政宗の手勢との乱戦の中で落命した。その時点で輝宗と交戦中の大名は蘆名と相馬だけだったが、輝宗の死は隠忍していた大崎に反旗を翻させ、蘆名、相馬、岩城、石川、二階堂、そして常陸の佐竹を連合させてしまう。さらに、輝宗の正室義姫の実家である出羽の最上との対立を再燃させた。
全方位に敵を抱えてしまった政宗にできることは、可能な限り迅速に兵を動かし、それを可能な限り一点に集中し、一時的な権勢を確保した段階で敵に徹底的な打撃を与え、各個撃破することだけだった。
しかしそんな状況にあっても、政宗は伊達家累代が得意とした血縁外交を展開した。中央政権との結びつきについても、政宗は父祖のそれを大筋で継承していた。
伊達家累代は、それを最も得意とした稙宗ばかりではなく、晴宗や輝宗の代になっても、公的権威に代わる中央の大勢力や血縁関係に依存した外交に主体を置いてきた。そうした手段がカンフル剤としての大きな効果を持っていたからである。その効果が一時的なものでしかなくても、降雪量の関係で作戦期間が限定され、防御拠点を保持する側に極端に有利だった奥羽の作戦環境の過酷さからすれば、困難な勢力圏の軍事的拡張を補完して余りあるものだった。
 輝宗の外交戦略
政宗の血縁外交の対象は、最上家との関係修復であり、蘆名家との婚姻による関係強化だった。どちらも輝宗の路線の継承であることは、情勢を抜きにして考えれば明らかである。
そして情勢を考慮したとしても、妥協点をみだし得る対象をその両家に絞り込んだことそのものが、輝宗の方針と一致し、その継承であることを証明している。最上、蘆名、佐竹の懐柔あるいは屈服こそが、輝宗時代の基本方針だったからである。
輝宗は蘆名盛興と佐竹義重に妹を嫁がせ、婚姻外交によって仙道筋を囲い込むという戦略を展開した。そしてその効果は、盛興の死後も二階堂家から入った盛隆が盛興室を娶ったことで、ある程度までは持続した。これは、蘆名家が先代当主盛氏の影響下にあったからで、のちにその死によって輝宗が対蘆名戦に踏切るという方針転換を行ったほどの絶大な影響力を持っていた。それは盛氏が輝宗の叔母を娶っていたからで、これは輝宗の祖父稙宗による外交の成果だった。
また盛隆も輝宗の姉である二階堂盛義室の実子で、この輝宗の父晴宗の遺産は、蘆名家との関係が容易に修復可能であり、決定的破綻にいたらないという効果をもたらした。つまり輝宗は、父祖が築いた血縁の枠組みを利用し、そのうえで新たな血縁家系でそれを強化し、伊達家の優位を確立していったのである。そして政宗も、輝宗以前に築かれた外交基盤の上で外交を展開した。
輝宗は早くから信長との音信を重視し、本能寺の変後はいち早く秀吉にも接近した。そして政宗もまたそれを継承しようとした。中央政権との強固な結びつきを背景に、奥羽での外交を有利に展開させるという、伊達家累代の伝統的外交政策を、である。
 破綻した伊達家得意の外交戦略
だが輝宗の急死により、激変した奥羽情勢は、政宗に輝宗とは異なる選択を強いることになった。対秀吉外交では、輝宗の死で伊達家に敵対するようになった佐竹義重に完全に後れを取っていたからである。
輝宗には佐竹義重を牽制する手段が三つあった。ひとつは妹を介した婚姻の絆、ひとつは中央勢力に対する影響力の差、もうひとつは南から佐竹領を脅かす北条家との音信である。
しかし、前二つの方策は輝宗の死によって大きく影響力を減じ、政宗は輝宗ほど効果的にそれらを活用できなくなっていた。婚姻関係に至っては、むしろ義重に逆手に取られ、マイナスに作用していた。
そのため政宗は、望むと望まざるとに関わらず、北条家との関係を重視せざるを得なくなっていた。そしてそれは、秀吉と佐竹の対立勢力である北条家との外交に依存するという、極めて危険な選択を政宗に強いることになるのである。




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