奥羽制覇の戦略と戦術
~摺上原の戦いr~
 

 猪苗代氏の内訌
天正16年(1588)5月10日、蘆名家の勢力圏内で、南奥羽を震撼する大事件が勃発した。蘆名一門衆筆頭の猪苗代盛国・盛胤父子の内紛である。
この内紛は、天正13年に盛国が盛胤に家督を譲ったことに端を発するものだった。盛胤が蘆名亀王丸の後継問題で伊達小次郎擁立に失敗し、大幅に発言力を後退させてしまったことから、盛国は大いに不満を持ち、盛胤の資質に疑いを持つようになったのである。そして盛胤への不信は、盛国を次男偏愛へと傾斜させ、ついには廃嫡の具体的行動を起こさせる結果となった。盛胤が黒川条に出仕した隙に、盛国が猪苗代城を奪取したのである。盛胤は即座に兵を集めて城を奪回しようとしたが、折から伊達領侵攻を目前に控えていた蘆名家には、盛胤を支援する余力がなかった。しかも盛国を放置してまで出陣した郡山では、圧倒的な優勢にもかかわらず、またしても蘆名・佐竹連合軍は伊達政宗に撃退されてしまったのである。
大軍をわずかな兵力で防ぎ切った政宗は、盛国が半独立状態で放置されたことにより、一転して好機を手にすることになった。調略に対する伊達加担との盛国の反応は政宗を大いに満足させるものだったのである。
 会津侵攻作戦
天正17年(1589)4月22日、政宗は大森城に入った。そして兵馬を休めた後、5月3日になって一気に本宮城まで軍勢を進め、片倉小十郎景綱、伊達成実、大内定綱らに安子ヶ島と高玉の両城を攻めさせた。圧倒的優勢を確保した伊達勢の前に、安子ヶ島城は翌4日に開城、高玉城も5日に陥落。高玉城内の生存者は撫で斬りにされた。
わずか2日間の戦闘で両城を手中にした政宗は、一転して相馬方面に転進した。伊達勢の疾風怒濤の転戦を知った蘆名盛重は、政宗の期待通り安子ヶ島・高玉の両城の奪取を企図し、猪苗代南岸を迂回して27日に須賀川に集結した。しかし、佐竹勢の動きは鈍く、当主義宜が佐竹東家の軍勢を率いて須賀川入りをした後も、佐竹義重は主力を白河城から動かそうとはしなかった。連合軍の集結は、盛重ら蘆名家主従の焦りをよそに、中途半端なまま進められたのである。
そして6月1日、政宗は相馬表で盛国からの内応受諾の返報を受け、ただちに片倉景綱隊と伊達成実隊を先発させた。同時に米沢へも使者を送り、留守居の将兵から抽出した支隊に米沢街道の南下を命じた。政宗は重臣たちの反対を押し切って雨中を夜間行軍し、須賀川に集結中の蘆名・佐竹の軍勢の鼻先をかすめて、4日午後には主力とともに猪苗代城に入った。この主力の動向は3日のうちに蘆名方に察知されていた。盛重は伊達主力が猪苗代に入る前に先制攻撃を加え、伊達先遣隊もろとも猪苗代盛国を血祭りにあげるべく、全軍を率いて黒川条へ引き返した。しかし義宜率いる佐竹勢先遣部隊は、義重の須賀川合流のため残留し、連合軍の足並みは大きく乱れることになった。
しかも6月3日から4日にかけての悪天候で、両軍はその後の敵の動きを完全につかみそこなった。義重は伊達勢先遣隊の猪苗代入城と主力の本宮城集結を知ってはいたが、政宗も蘆名勢を含む連合軍の須賀川集結と義重の未着を察知し得ただけで、その情報はともに不完全なものだった。
そして敵情を掴めないながらも、政宗はこの時点で義重父子を完全に出し抜いたと判断し、義重は総攻撃の判断を保留した。その結果、両軍の対応の違いは明暗を分けることになった。
5日になって蘆名勢の黒川への撤収を知った政宗は、その日のうちに黒川城に迫るつもりで、全軍に早朝の出陣を命じた。連携の乱れた連合軍を出し抜き、黒川城ののど元を抑えてしまおうというのである。が、出陣直前になって更なる情報が追加された。蘆名勢はすでに日橋川を越え、猪苗代湖北岸の高森山付近に集結中だったのである。こうなっては黒川条どころの話ではない。政宗は、蘆名勢との決戦を決意した。
 磐梯山麓での遭遇
5日早朝、磐梯山麓を西に向かった伊達勢は、摺上原付近で高森山に布陣した蘆名勢と対峙した。
伊達勢は大きく二手に分かれていた。一手は猪苗代勢と片倉景綱隊を一番隊とする本隊で、その前面には全軍から選抜された100挺の鉄砲衆が配置された。もう一手は伊達成実隊と旗本衆の一部からなり、政宗の旗本から分遣された約50挺の鉄砲衆で増強されていた。本隊が正面から敵を拘束し、成実の別動隊はそのすきに磐梯山麓を迂回、蘆名勢の後方に進出して後備を釘付けにする役割を与えられた。
これらの実戦部隊に加え、政宗は黒脛巾組から選抜した少人数の工作隊を編成していた。日橋川にかかる橋梁に火を放って破壊し、蘆名勢の退路を遮断するためである。橋梁の炎上は蘆名勢の戦意を打ち砕き勝敗を決すると同時に、蘆名勢の退路を遮断することにもなる。つまり伊達勢は、正面攻撃だけで蘆名勢を包囲することが可能になる。
一方、高台の緩斜面に位置する一万余の伊達勢に対し、先遣部隊をその南西の窪地まで進出させいた蘆名勢は、高森山に本陣を構えていた。兵力はほぼ同数だが、日橋川を背にした高森山周辺に展開したことで、蘆名勢は意図せず背水の陣に身を置くことになった。
この伊達勢主力の出現という予想外の事態は、蘆名勢を仰天させることになった。伊達勢主力の到着前に、片倉隊もろとも盛国を攻め滅ぼすという盛重の計画は、もろくも崩れ去った。猪苗代への進撃途上にあった蘆名勢は急停止したが、その結果は最悪で、地元の領主である猪苗代盛胤の手勢を先頭に、高森山を挟んでひどく細長く伸びきることになったからである。
盛重の幕僚と蘆名勢先手備えの大将を兼ねる大繩義辰はこの態勢を危ぶみ、猪苗代盛胤や河原田治部少輔、新国上総介などの外様領主と佐竹系家臣からなる指揮下の部隊を前進させ、高森山の北側の窪地へと下る坂を占拠させようとした。その坂の上を敵に押さえられることは、反撃の足掛かりを失うことを意味していたからである。
一番備の右手には、その後方を進んでいた譜代衆と牢人衆からなる金上盛備指揮下の先手二番備が、左後方には二番備の後ろにいた宿老佐瀬源兵衛ら親佐竹派の蘆名家譜代家臣で構成された先手三番備が移動する。これで先手備は坂の上を占拠した猪苗代盛胤の手勢を除いてすべて窪地に入り、伊達勢の視界から姿を隠す形になった。反対側の斜面に陣地を確保したことで、蘆名勢は前進してきた伊達勢を伏撃し、一挙に粉砕することが可能になったのである。
しかしこれら先手備の後方は、富田美作の嫡男将監を先手とする高森山麓の旗本備までがら空きの状態だった。そして旗本備と先手備とは、いずれも須賀川から転身してきた部隊で、伊達勢主力以上に疲労していたのである。そもそも、盛重の家督以前から反目していた諸隊は、相互不信で統制を失い、すでに前半分が戦闘態勢を整えた頃になっても、まだ後続部隊は本陣後方を行軍しているというありさまだった。
 蘆名勢自壊
万全の布陣を終えた政宗は、続々と押し寄せてくる敵勢を遠望し、全軍を押し出させた。そして午前8時頃、鉄砲衆を先頭に前進する伊達勢本隊と。蘆名勢先手が衝突し、ついに合戦の火ぶたが切られた。
伊達勢の射撃に対し、蘆名勢先手備の諸隊は猛然と反撃に出た。反対斜面の背後で敵の射撃から身を守っていた蘆名勢は、射撃に身を晒されて備を乱しながら押し出してきた伊達勢を縦横に切り崩した。先手一番備の先陣猪苗代盛胤は、手勢を猛進させて伊達勢の前哨部隊の一翼を蹂躙し、猪苗代衆同士の戦闘になることを嫌ってわずかに進路を右手にずらすと、片倉隊の右翼に突進した。この針路変更につられて後続諸隊も進路を変え、新国隊は猪苗代勢と正面から激突し、河原田隊は片倉隊左翼に殺到した。後続する佐竹系家臣の諸隊もこれに続き、押し捲られた猪苗代勢と片倉隊はじりじりと後退し始める。そこへ窪地を湖岸方向に迂回した金上盛備の二番備が左側背から押し寄せると、片倉隊は一気に敗走し、続いて猪苗代勢も総崩れとなった。
味方が左翼から崩れ始めたのを見た政宗は、旗本備から鉄砲衆200を急行させ、さらに旗本備の左右を固める大内・片平の兄弟に猪苗代・片倉の救援を命じた。鉄砲隊は猪苗代盛胤の手勢の正面に展開させ、その猛進を阻止しようとした。主力を父盛国に奪われていた盛胤の手勢は、射撃戦力の点では政宗の旗本鉄砲衆の比ではなかった。ほどなく盛胤は深手を負い、その手勢は散り散りになって敗走した。
しかし、それ以外の蘆名勢先手の諸隊は、逃げ崩れる伊達勢に追いすがり、攻勢限界を無視して荒れ狂っていた。すでに伊達勢からは大内・片平の両隊が進み出て反撃に転じ、突出する蘆名勢を両翼から締め上げ始めている。進み続ければいずれは破綻しかねない戦況だったそしてこの状況で、二極分化した蘆名勢はその欠陥を露呈することになった。三部隊で構成された先手備はそのすべてが戦闘の渦中にあったが、後続部隊は依然として後方でぐずぐずしていた。戦局の転換点を迎えたこのとき、蘆名勢は予備兵力を使い果たした状態だったのである。
蘆名勢の後続の動きがぴたりと止まったのは、この乱戦の隙を突いて、山手側を大きく迂回した別動隊の活躍にあった。蘆名勢本陣の近くまで進出した成実は、行軍隊形のまま進出してきた平田、富田、松本の三部隊に対し、突如発砲し始めた。全く戦闘準備を整えていなかったこの三隊は、兵力的には成実隊に優越していながら、瞬く間に大混乱に陥り、体勢を立て直すために本陣後方まで後退した。
これが蘆名勢全体の戦意を大いに損なうことになった。後方の諸隊は蘆名四天の宿老の部隊が三隊までもが敗退したことで前進を渋り、本陣から派遣された使者がいくら督励しても動こうとしなかった。家臣団に救う対立に、戦況の悪化と戦意の低下が拍車をかけ、ただでさえ統率力に乏しい盛重の命令はことごとく無視されたのである。
そしてその瞬間をとらえたかのように、黒脛巾組の別動隊が日橋川の橋梁に火を放った。しかも、橋梁の炎上と同時に、宿老衆の寝返りという流言が広がり、動揺と混乱は瞬く間に蘆名勢全体に広がった。宿老の平田、富田、松本らの諸隊が持ち場を放棄して逃走すると、あとは止めようがなかった。本陣周辺に展開していた予備部隊が真っ先に逃走したことで、蘆名勢はもろくも崩壊した。いわゆる裏崩れである。
後方の部隊が四散したことで、先手の諸隊は力尽き、蘆名勢は総崩れとなった。蘆名勢は3千近い将兵を討ち取られ、壊滅的打撃を受けて崩壊した。盛重はこの大打撃から立ち直る間もなく、5日後に黒川城を出て、政宗は南奥州の大半を手中にすることに成功したのである。




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