環大西洋世界と東インド
~イギリス商業革命~
 

 イギリス貿易構造の変化
18世紀のイギリス帝国は、当初、北米植民地、西アフリカ、西インド諸島(カリブ海地域)とブリテン諸島からなる大西洋を囲む諸地域(環大西洋世界)を中心として構成された。最初に、この環大西洋世界に展開したイギリス帝国の構造を、物のやり取りを主体とする貿易・通商関係から見ていく。
18世紀のイギリス帝国形成の原動力になったのが、1660年の王政復古から1760年代のアメリカ独立革命に至る約1世紀間に起こったイギリスの貿易構造の大きな変化であった。イギリス経済史研究の大家、R・デイヴィスはこの変動を「商業革命」と名付けた。16世紀の大航海時代におけるスペイン、ポルトガルによる海外交易の拡大に対して使用されるが、18世紀のイギリスではさらなる大きな変化が見られたのである。
 イギリス商業革命の特徴
イギリス商業革命の特徴として、以下の3点を指摘できる。
第一に、イギリスの海外貿易額の大幅な増大である。総輸出額は、18世紀初めの642万ポンドから1770年代初頭には約2・5倍の1567万ポンドに増大し、総輸入額も585万ポンドから1273万ポンドにほぼ倍増した。当時のヨーロッパの経済は相対的に停滞したが、イギリスだけは輸出入の伸びが際立っていた。
第二に、貿易相手地域が大きく変わった。伝統的な貿易相手地域であったヨーロッパ大陸に代わって、非ヨーロッパ世界の比重が急激に上昇し、1770年代になると、南北アメリカ大陸とアジア諸地域が、全ヨーロッパを凌駕して貿易額の過半を占めるに至った。
第三に、貿易商品の構成に根本的な変化が見られた。まず輸出面では、従来のイギリスの主力輸出品であった新毛織物に代わり、毛織物以外の絹・綿などの織物、ガラス、皮革、石鹸、紙、ロウソク、金属製品など、日常生活に必要な雑多な工業製品の輸出が増加し、1770年代には総輸出額の4分の1強、国内産品輸出の半額を占めて、主に非ヨーロッパ世界に輸出された。この過程で、毛織物業以外の多様な雑工業生産の基盤が形成された。また輸入面では、新大陸からの砂糖、タバコ、珈琲、アジア方面からの綿織物、絹織物の輸入が激増し、同時にこれら舶来物産のイギリスからの再輸出が急増した。再輸出額は1770年代まえに3倍以上に増え、528万ポンド、総輸出額の約3分の1に達した。
この18世紀における海外貿易の拡大、イギリス商業革命は、植民地物産の輸出入をイギリス(イングランド)の船舶にのみ限定し、その独占を図った1660年代の航海法と、植民地帝国によって支えられていた。

 イギリス植民地帝国
イギリスは17世紀末の名誉革命以降、1763年までのほぼ100年間にわたって、断続的にフランスと植民地・海外市場の争奪戦を展開していた。この戦いは「第二次英仏百年戦争」とも呼ばれる。
1701~13年のスペイン継承戦争に付随したアン女王戦争の帰結としてのユトレヒト条約(1713年)で、スペインから地中海の入り口で戦略上の要衝ジブラルタルと奴隷の独占的供給権を、フランスからは北米のハドソン湾とニューファンドランドを獲得した。
1756~63年の七年戦争にともなうフレンチ=インディアン戦争では、優位に戦局を展開し、仏領のカリブ海諸植民地(西インド諸島)やセネガル、スペイン領フロリダを占領。1763年のパリ条約により、フランスからカナダとミシシッピ川以東のルイジアナを獲得し、北米大陸からフランス勢力を駆逐した。さらに南アジアにおいても、1757年、プラッシーの戦いで勝利をおさめ、のちのインド植民地の基盤を築くことになった。
こうして大西洋を取り巻く諸地域と「東インド」地域を含めたイギリス植民地帝国(第一次帝国)が姿を現した。イギリス商業革命は、こうした非ヨーロッパ世界における領土的膨張主義と並行して展開したが、その過程で、イギリス本国と環大西洋地域とを結ぶ貿易リンクが形成された。イギリス―西アフリカ―西インド諸島、イギリス―北米植民地―西インド諸島、イギリス―アイルランド―西インド諸島、以上「三つの三角形」がそれである。




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