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環大西洋世界と東インド ~アジアの大航海時代~ |
イギリス東インド会社もアユタヤ(シャム)、パタニ(マレー半島)、平戸に商館を構えたが、いずれも実績を上げることはできず、1623年に東南アジアのモルッカ諸島のアンボイナでオランダ東インド会社との武力抗争に敗れたのち閉鎖された。その間、1600年に豊後に漂着したオランダ船リーフデ号のイングランド人航海士ウィルアム・アダムス(三浦按針)は、徳川家康に外交顧問として仕えて日英交流の先駆けとなった。その後のイギリス東インド会社の活動は、主要なアジア交易の本拠地を南アジアに移し、キャラコやモスリンといったインド産綿織物と、中国からの茶の輸入に特化するようになった。
この時点で、ヨーロッパ勢力による領域的活動は、アジア各地で交易拠点を確保することに限定されていた。イギリス、ヨーロッパの商人層が、既存のアジアネットワークに参入し、それを活用・利用する段階であった。アジア交易では、アジア側が明らかに優位に立っていたのである。 イギリス革命の政治的変動を乗り切ったイギリス東インド会社は、1688年の名誉革命以降、1649年に設立されたイングランド銀行や、1711年に設立された13年にスペイン領中南米植民地への奴隷の独占的供給権(アシェント)を獲得した南海会社と並んで、イギリスの「財政革命」を支える有力な機関となった。 |