イギリス東インド会社は、競争相手であるオランダ東インド会社とともに、当初の目的であった東南アジア産の香辛料獲得を通じて、結果的に銀流通を中心に展開されていたアジア域内交易のネットワークに新規参入することになった。近世後期のアジア域内交易に関しては、近年桃木至朗氏を中心とする海域アジア史研究の分野で急速に研究が進んでいる。そこでは、中国商人による中国生糸と日本銀の交易、オランダ東インド会社によるインド産の生糸・絹・綿織物と日本銀・中国銀の取引等、新たな交易が注目されている。
イギリス東インド会社もアユタヤ(シャム)、パタニ(マレー半島)、平戸に商館を構えたが、いずれも実績を上げることはできず、1623年に東南アジアのモルッカ諸島のアンボイナでオランダ東インド会社との武力抗争に敗れたのち閉鎖された。その間、1600年に豊後に漂着したオランダ船リーフデ号のイングランド人航海士ウィルアム・アダムス(三浦按針)は、徳川家康に外交顧問として仕えて日英交流の先駆けとなった。その後のイギリス東インド会社の活動は、主要なアジア交易の本拠地を南アジアに移し、キャラコやモスリンといったインド産綿織物と、中国からの茶の輸入に特化するようになった。
東インド産の綿織物は、1613年に初めてイギリス東インド会社によってイギリス本国に輸入された。17世紀後半にキャラコ、モスリンなどは、安価な値段、肌触りの世さ、鮮やかな染色と洗練されたデザインなどで、上中流のジェントルマン階層だけでなく、一般庶民の間でも人気を博す商品となり、イギリス東インド会社が取り扱ったアジア物産のなかで主力商品となった。当時のイギリスを含むヨーロッパ諸国において、インド産綿織物は、ファッショナブルな最新流行の織物、衣服の素材として最も人気を博した商品であった。まさに「豊かなアジア」を代表する商品として、広範な社会層に愛好されたのである。
上記の考察から明らかなように、17世紀のヨーロッパで設立された独占的貿易会社は、人気があったアジア物産(綿織物、陶磁器、茶など)を有利な条件で入手することにしのぎを削った。15世紀後半から17世紀前半までの東南アジア・東アジア海域世界は、アジア商人が優位に立ち、遠隔地交易が盛んに展開された「アジアの大航海時代」であった。その「豊かなアジア」に依存し、乗っかる形で交易を展開したのがヨーロッパ各国の東インド会社群であった。
この時点で、ヨーロッパ勢力による領域的活動は、アジア各地で交易拠点を確保することに限定されていた。イギリス、ヨーロッパの商人層が、既存のアジアネットワークに参入し、それを活用・利用する段階であった。アジア交易では、アジア側が明らかに優位に立っていたのである。
イギリス革命の政治的変動を乗り切ったイギリス東インド会社は、1688年の名誉革命以降、1649年に設立されたイングランド銀行や、1711年に設立された13年にスペイン領中南米植民地への奴隷の独占的供給権(アシェント)を獲得した南海会社と並んで、イギリスの「財政革命」を支える有力な機関となった。 |