環大西洋世界と東インド
~アジアとの交易~
 

 オランダとの競争
アジアとヨーロッパをつなぐ遠隔地交易でも、16~17世紀に新たな発展が見られた。1600年に結成されたイギリス東インド会社の活動がそれである。イギリス東インド会社は、東地中海方面でアジアからの東方物産の輸入に従事していたレヴァント会社(1592年結成)を引き継ぐ形で、すぐにイングランド最大の特許会社となった。
K・N・チャウドリの研究によると、同社の初期の業務は、ヨーロッパで需要が拡大した東インド物産(胡椒・香辛料・綿織物)の輸入が中心となった。だが、1602年に結成されたオランダ東インド会社との競争に巻き込まれて、イギリス東インド会社は苦戦を余儀なくされた。オランダ東インド会社はイギリス東インド会社の10倍以上の資本金を有し、東南アジアのマラッカ、バタヴィアや、東アジアの台湾島の台南、日本の平戸等、各地に商館を開設して、アジアとの交易で優位に立った。
当時、アジアからの物産の購入に充てるためには、イングランド産の毛織物(従来の厚手に代わる薄手の新毛織物)は全く輸出品として役に立たず、新大陸からヨーロッパにもたらされる銀塊を交換手段とするしか方策がなかった。その銀塊の輸出量を抑えるために、イギリス東インド会社やオランダ東インド会社などヨーロッパに本拠を置く独占貿易会社にとって、南アジア・東南アジア・東アジア諸地域をつなぐ「アジア域内交易(the country trade)」への参入が不可欠になった。16~17世紀初頭まで世界有数の銀産出国であった日本との交易は、特別の魅力があった。
 日本の銀
アメリカのD・フリンによると、16世紀は「銀の世紀」であり、世界的に見て銀の流通量が飛躍的に伸びた時期であり、その背景にはスペイン領アメリカにおける銀山開発があったことは良く知られている。
しかし東アジアについてみた場合、16世紀前半の東アジアにおける銀の時代を本格的に切り開いたのは、スペイン領アメリカの銀というより、むしろ日本の銀であった。フリンは「銀の世紀」において一大銀産出国であった日本に着目し、日本銀の輸出の世界史的意義を考察することで、日本史(日本経済史)を組み込んだ、新たなグローバルヒストリーを模索している。
16世紀初頭、東アジアの朝鮮半島の端川銀山で本格的な開発が始まり、朝鮮半島で産出した銀は密貿易で中国や日本に運ばれた。だが、1530年代に日本各地の戦国大名によって、灰吹法など新たな精錬技術が朝鮮から導入され、積極的な鉱山開発が行われた結果、日本銀の産出量は急増し、それらは朝鮮や中国に送られるようになった。その代表例が石見銀山(島根県)である。16世紀半ばから17世紀初めに、日本は世界の銀生産の約3分の1(年間200㌧)を産出し、石見銀山は日本最大の銀山であった。

 東アジア交易事情
しかし、当時の朝鮮や中国は海禁政策(鎖国・貿易統制)を実施しており、民間貿易を厳しく制限していた。中国国内の銀需要と日本における銀産出の急増という環境のもとで、両地域の取引を阻んだ海禁政策を突き崩したのが、倭寇と呼ばれた様々な地域の人間で構成された密貿易集団であった。彼らが海賊行為と共に、日本の銀を中国にもたらす役割を担ったことから、この地域の銀不足は徐々に回復されていった。
16世紀中葉になると、明朝は海禁政策を緩和し、北方勢力との停戦を進めて交易を活発化させていった。そのなかでヨーロッパ勢力が、東アジア内の貿易活動に積極的に関与してくるようになった。
特に、マカオと長崎を結ぶ交易で、日本の銀と中国の生糸の取引を掌握したポルトガルは莫大な富を得ることができた。また、スペインも1571年にマニラを建設し、そこを訪ねた中国・福建商人との間で、中国の奢侈品と太平洋を越えて送られてきた銀を交換して富を得ていた。新大陸の太平洋岸の港町、メキシコのアカプルコとマニラを結ぶ、ガレオン船交易がそれである。年間、約25~30トンのアメリカ大陸銀が、太平洋を横断してマニラに運ばれたと推定されている。16世紀のスペイン領アメリカと日本で産出された銀は、あらゆる経路をたどって最終的に中国大陸に吸収され、この時期の中国は「世界の銀の終着点」となった。




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