環大西洋世界と東インド ~イギリス帝国の起源~ |
そうした状況において、イギリス帝国の起源と海外への膨張の契機は、ブリテン島の西に隣接するアイルランド・アルスター地域(現在の北アイルランド)に対する、イングランドとスコットランドからの入植・定住が本格化した17世紀前半に求めるのが妥当とみられる。天候不順、不作、食糧不足などによる「17世紀の全般的危機」の不況下において、新たな活路と土地を求めて、アイリッシュ海によってブリテン島と隔てられたアルスターには、1641年までに約3万人がスコットランドから入植した。彼らスコットランド人入植者たちは、中世末期以来、現地において支配的な地位を占めていたイングランドからの入植者との共存を目指した。彼ら入植者の間では、現地のカトリック勢力に対して、「ブリティッシュ」という共通の意識とアイデンティティが育まれた。 こうしたブリテン島からアイルランドを経由した西方への勢力拡張は、大西洋世界のアメリカ大陸、西インド諸島への進出につながった。現在でも、地理的には、北米大陸の東海岸とアイルランド島とは非常に近く、アイルランド西部のシャノン国際空港は、首都のダブリン以上に北米航空路の結節点として多くの利用客がある。アイルランド島への植民活動は、後の大西洋をまたいだ海外進出の先駆けとなり、アイルランドはブリテン島から海外に出ていく諸活動の実験場になったのである。
ピューリタン革命の最中の1649年8月、オリヴァ・クロムウェルを司令官とするイングランドの議会派の軍隊は、アイルランドのダブリンに上陸し、翌年5月までに反乱鎮圧を名目に各地で多くの住民を虐殺した。1652年8月のアイルランド土地処分法、翌年9月の償還法によって、アイルランドでの叛乱に参加した者やカトリック地主の土地が大量に没収され、それらの土地は、反乱鎮圧に資金を提供したロンドン商人や、プロテスタント地主の手に渡り、アイルランドの事実上の植民地化が進んだ。 また、1655年の同じくクロムウェルによる西インド諸島のジャマイカへの艦隊派遣と占領は、イングランド国家が大西洋を越えて軍事力を本格的に行使した最初の事例である。 1660年の王政復古以降、大西洋世界への進出は本格化し、バルバドス島をはじめとするカリブ海の植民地には、イングランドからの移民が入植し、砂糖プランテーション農園が開発された。その発展が、のちに食糧・木材資源の供給地として北米諸植民地の存続を支えることになった。 さらに、1672年に設立された王立アフリカ会社は、西インド諸島における労働力(黒人奴隷)を確保するために、西アフリカ沿岸地域で奴隷貿易に従事し、のちの18世紀に本格的に形成される大西洋をまたぐ植民地間貿易網、「大西洋の三角貿易」の原型が作られた。 |