育まれた背景 ~インドでの生活~ |
日中の暑さを避けて早朝に練兵があり、朝食後の厩舎勤務が終わると、夕方のポロの練習までは自由であった。チャーチルが蝶の採集を始めたのはこの時期であった。ポロにはひどく打ちこんだ。それは彼にとって「人生の一大事」であり、心ならずもインドの軍務を続けたのも、一つには全インド連隊対抗のポロ大会に優勝することを目標にしていたからである。この大望は、3年間の研鑽の後に首尾よく達成することができた。夜8時半には、軍楽隊の演奏を聴きながら氷の快く鳴るグラスの満を引き(氷は北部インドから運んだ天然水)、晩餐を取る。費用は自弁であった。それから運悪く先任将校に当時流行のホイストを突き合わされたものは別として、10時半から11時の就寝の合図まで月光の中で葉巻を吸った。これが3年間のインド生活であった。彼が強い愛着を感じるようになるインド帝国とは、召使いと金貨、そしてポロの手合わせをした王侯の子弟たちのインドであった。
「それは奇妙な教育であった」と、自伝で回想している。彼には飢えた頭と何でも噛みつく顎があったが、手ほどきしてくれる教師がいなかった。教師がいなかったから、過去の思い出を頼りに手探りで本を選んだ。 手がかりとして選んだのはギボンだった。父がギボンを愛読し、どこでもすっかり暗記していて、それが演説や文章に大きな影響を与えたと聞いていたからである。彼はギボンの物語と文体に忽ち圧倒されてしまった。自分の意見は本の余白に書き込み、やがて著書に完全に共鳴した。彼の自伝も読んだ。それからマコーレーに移った。 彼はマコーレーを福音書の様に受け入れたが、先祖のモールブラ公爵に厳しい判断を下しているのを残念に思った。この魅惑的な文体と恐るべき自信を有した歴史家が、実は真実よりも物語を好み、自分の物語に都合のよいように偉人を褒めたり貶めたりする「文壇の悪王」である事を知ったのは、もっと後の事であった。 この二人の歴史家を通じて、彼は自分自身の文体と思考の形式を作り上げていった。「文は人なり」という表現に倣えば、自らの人格を自覚的に形成していったと言っても良い。大学に在学中の弟に宛てた手紙で自分の文体を実験し、あまりに荘重なので閉口したという返事を受け取ったりしている。
97年春の休暇に帰国した際には、オックスフォード大学に入学して「講義を聞き、教授と議論し、教授の奨める本を読みたい」という強い気持ちに駆られたようである。彼の想像している大学とは、知識だけでなく議論の仕方を学ぶ場であった。大学卒業者が対立する議論の双方に自由に(無節操に?)飛び移り、それぞれの議論の利害損失を公平に展開していくのには、しばしば驚嘆されたものであった。しかし学資がなかった。それにラテン語、ギリシャ語の入学試験があると聞いて諦めざるを得なかった。 余談だが、チャーチルは後に自伝の中で自分の大学教育論を開陳している。16,7歳になると詩と歌とダンス、教練と体操の外に何か手仕事を習わせ、健康な肉体労働に従事させる。そして知識欲が出てきたときにはじめて大学へ送る。大学へ行く事は、工場や農場で成績を上げた者、もしくは素質や熱意において特に傑出している者に与えられる特権でなければならないというのである。毛沢東の教育論と似ているといわれる。 |