育まれた背景
~インドでの生活~
 

 植民地将校の生活
新しい駐屯地南インドのバンガロアでは、典型的な植民地軍将校の生活が待っていた。チャーチルは他の二人の同僚とともにブーケンヴィリアとバラが咲き乱れる大きな庭付きのバンガローを得た。各人に召使頭一人、衣裳係二人、馬丁一人、それに共同で庭師二人、水運び係三人、洗濯係四人、夜警一人を宛がった。将校としての給与は一日約14シリング、馬二頭の飼料費3ポンドであった。それに年4回に分けての送金5百ポンドが彼の全収入であった。足りなくなるとインド人の金貸しから高利の借金をしてしのいだ。
日中の暑さを避けて早朝に練兵があり、朝食後の厩舎勤務が終わると、夕方のポロの練習までは自由であった。チャーチルが蝶の採集を始めたのはこの時期であった。ポロにはひどく打ちこんだ。それは彼にとって「人生の一大事」であり、心ならずもインドの軍務を続けたのも、一つには全インド連隊対抗のポロ大会に優勝することを目標にしていたからである。この大望は、3年間の研鑽の後に首尾よく達成することができた。夜8時半には、軍楽隊の演奏を聴きながら氷の快く鳴るグラスの満を引き(氷は北部インドから運んだ天然水)、晩餐を取る。費用は自弁であった。それから運悪く先任将校に当時流行のホイストを突き合わされたものは別として、10時半から11時の就寝の合図まで月光の中で葉巻を吸った。これが3年間のインド生活であった。彼が強い愛着を感じるようになるインド帝国とは、召使いと金貨、そしてポロの手合わせをした王侯の子弟たちのインドであった。
 読書生活
チャーチルは、インドでの生活は全体として「愚かで退屈で面白くない」と感じていた。特に軍隊生活の特徴である「知的沈滞」を嫌った。連隊がまだオルダーショットにいたとき、彼が真面目な読書生活を始めていたが、インドでいよいよ本格的に進められた。毎日4,5時間、同僚が昼寝をしている時間も彼は読書に充てた。最初の休暇を得るまでの7か月間に、母はマコーレーのイギリス史8巻とエッセイ集4巻、アダム・スミス「国富論」2巻、「政治年鑑」27巻を送っている。本を受け取ってから3か月後には、毎日マコーレーを50頁、ギボンを25頁ずつ読み、マコーレー全集はほとんど終わり、ギボンは4千頁のうち百頁を残すだけだと母に報告している。他にマルサス、ダーウィン、英訳のプラトン、アリストテレスの政治学、ショーベンハウアーなども読破した。
「それは奇妙な教育であった」と、自伝で回想している。彼には飢えた頭と何でも噛みつく顎があったが、手ほどきしてくれる教師がいなかった。教師がいなかったから、過去の思い出を頼りに手探りで本を選んだ。
手がかりとして選んだのはギボンだった。父がギボンを愛読し、どこでもすっかり暗記していて、それが演説や文章に大きな影響を与えたと聞いていたからである。彼はギボンの物語と文体に忽ち圧倒されてしまった。自分の意見は本の余白に書き込み、やがて著書に完全に共鳴した。彼の自伝も読んだ。それからマコーレーに移った。
彼はマコーレーを福音書の様に受け入れたが、先祖のモールブラ公爵に厳しい判断を下しているのを残念に思った。この魅惑的な文体と恐るべき自信を有した歴史家が、実は真実よりも物語を好み、自分の物語に都合のよいように偉人を褒めたり貶めたりする「文壇の悪王」である事を知ったのは、もっと後の事であった。
この二人の歴史家を通じて、彼は自分自身の文体と思考の形式を作り上げていった。「文は人なり」という表現に倣えば、自らの人格を自覚的に形成していったと言っても良い。大学に在学中の弟に宛てた手紙で自分の文体を実験し、あまりに荘重なので閉口したという返事を受け取ったりしている。
 議論を練習
他方で「政治年鑑」を呼んで議論の仕方を練習した。この年鑑は、18世紀末にバークを初代編集者にして発刊され、年々の政治の論点を専ら議会における主要な発言を材料に収録していた。もともと事実を検索するための参考書であるが、彼はそれを個々の論点について自分自身の意見を形成し、他の人々(大物の政治家も含まれていた)と意見を戦わせる練習をするのに利用した。「事実は鋭い剣を与えてくれる。マコーレー、ギボン、プラトンなどは・・・この剣を振るう筋力を鍛えてくれるのだ。」彼は論点ごとにまず一般的原則に照らして自分の意見を下書きし、ついで年鑑に紹介されている議論を読んで自説を練り直す。そして他の意見に対する反駁も含めて最終的な意見を書き上げた。細い鉛筆で丹念に書き込んだノートは、各頁に糊付けされて今でも読むことができるという。彼は自分の誕生の年の1874年から初めて、4年分を消化した。
97年春の休暇に帰国した際には、オックスフォード大学に入学して「講義を聞き、教授と議論し、教授の奨める本を読みたい」という強い気持ちに駆られたようである。彼の想像している大学とは、知識だけでなく議論の仕方を学ぶ場であった。大学卒業者が対立する議論の双方に自由に(無節操に?)飛び移り、それぞれの議論の利害損失を公平に展開していくのには、しばしば驚嘆されたものであった。しかし学資がなかった。それにラテン語、ギリシャ語の入学試験があると聞いて諦めざるを得なかった。
余談だが、チャーチルは後に自伝の中で自分の大学教育論を開陳している。16,7歳になると詩と歌とダンス、教練と体操の外に何か手仕事を習わせ、健康な肉体労働に従事させる。そして知識欲が出てきたときにはじめて大学へ送る。大学へ行く事は、工場や農場で成績を上げた者、もしくは素質や熱意において特に傑出している者に与えられる特権でなければならないというのである。毛沢東の教育論と似ているといわれる。




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