育まれた背景
~勲章と原稿料~
 

 冒険を求めて
キューバにおいてチャーチルは、イギリスの公式の代表であるかのように歓迎された。スペイン軍とともに7日間、未踏の密林を行軍し、ゲリラの襲撃も体験した。かなり身近に銃弾が飛び、後ろにいた栗毛の馬が倒された。チャーチルは初めて銃火の洗礼を受けたのだ。1895年、チャーチル21歳の誕生日の事であった。これからは、彼が他の軍人から蔑まされる立場となったのである。
しかし、キューバに滞在している間に、「たんなる冒険を求めて―そのために生命を危険にさらしたのは無分別だったと思うことも何度かあった」と書き記している。彼はその後も、戦闘の場に好んで顔を出したが、いつも他方で戦闘の無意味さ、悲惨さを書き留めている。また彼は、口には出さなかったものの初めはキューバ人叛徒に共感を感じていた。しかしスペイン軍将校と話しているうちに、彼らがキューバ人にたいして、ちょうどイギリス人がアイルランド人に対して持っているのと同じような所有意識、愛着を感じていることを知った。後年のチャーチルはイギリス帝国を熱烈に擁護するようになるが、それは帝国主義の経済的利益よりも、むしろ他国を支配することが支配者と支配民族の責任感を高め、彼らを「高貴」にし、被支配者に対する自愛と理解を生み出すと信じたからであった。
 剣とペンを求めて
チャーチルが昼寝と葉巻の習慣を覚えたのもキューバでのことであった。同時に彼は、デイリー・スケッチ紙に5つの記事を送り、叛徒に同情しながらも、抵抗の間とあった計画がないことを批判した。4年前、父が同じ新聞に南アフリカ訪問の記事を書いたときには、一つの通信に百ギニ(1ギニは1ポンド1シリング)の原稿料であったが、チャーチルの原稿料は5ギルであった。しかし彼は、曲がりにも新聞の特派員になっただけでなく、原稿料で青年将校のしがない給料の足しにできることを知った。おまけにチェーチルと友人の将校は、その「勇敢な行為」によってスペイン政府から勲章を授けられた。いずれも最初の原稿料であり、最初の勲章であった。
それからというもの、彼は勲章と原稿料―「剣とペン」を求めて盛んに策動している。クレタ島でトルコの支配に対する叛乱がおこると、特派員として出かける口を探し、ジェームスン事件をきっかけに南アフリカとイギリスの関係が悪化すると、南アフリカへ転任されるよう母に口添えを頼んでいる。
原稿料を求めたのは、もちろん一つには文名を挙げて政界へ打って出る一助にするためであったが、もう一つには金に困っていたからであった。当時、騎兵将校として暮らすには年収6百ポンドが必要であると言われていたが、彼の給与は120ポンドに過ぎなかった。その上、騎兵将校はいわば職業上の趣味としてポロをやらなければならなかったため、入隊時にはポロ用の馬や装備のために650ポンドが必要であった。他に予想していなかったこととして、将校用の食堂とクラブの会費を払い込まねばならなかった。仕立屋のツケも残っていた。他方、一家の経済は甚だ逼迫していた。
 インドへ
生前の父は、ロスチャイルド家からの借金で南アフリカの金鉱株を買っており、折柄の南アフリカ景気で価格は20倍に暴騰していたが、その収益の殆どは父の残した借金の返済に宛てねばならなかった。母は母で、父の死後だけですでに1万4千ポンドの借金を作っており、それを返済するには結婚時の持参金5万ポンドを抵当に借金をする他になかった。ウィンストンと弟のジャック―まだハロー校に在校中―の遺産の取り分も、またそれを抵当に借りられる金額も、それだけ少なくなるわけであった。母と子の間で、それぞれに必要な経費の複雑な計算を巡って数多くの手紙がとりかわされたが、母の一夜の舞踏会の衣装費2百ポンドもチェーチルの新しいポロの馬百ポンドも、ともに「自殺的」ではあるが必要であるというのが結論であった。
一方、母の奔走にも関わらず、転任と特派員の話は一向に実現しなかった。他に連隊を離れられない事情もあった。同僚の将校の父がチャーチルを同性愛行為を行ったと非難したために、それに対する名誉棄損の訴訟を行わなければならなかったからである。この非難は自由党急進派の下院議員ラブーシェの新聞トルースの支持を受け、支配階級の閉鎖性と堕落を攻撃するのに利用された。チャーチルは示談で事を解決して、損害賠償として4百ポンドを得たが、事件の調査が続いている間は逃げを打ったと思われないよう連隊に留まっていなければならなかった。
そして翌96年、連隊がインドに派遣されると、チャーチル少尉も連隊とともに赴任することになった。




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