育まれた背景 ~父の死去~ |
ロンドンで静養する間、イギリス政治の一端に触れることができた。1892年の総選挙で保守党が小差で敗れ、アイルランド国民党の支持を背後に成立したグラッドストーン内閣は、当然に再びアイルランド自治法案(第二次)を提出するものと予想された。それはランドルフ卿にとっては、6年前の辞職によって失墜させた声望を回復する絶好の好機であるように見えた。ウィンストンは、もちろん父を熱烈に支持していた。その数年来、父の演説と父に関する新聞記事は全て熟読し暗記していた。 彼は下院を傍聴して、グラッドストーンが生涯最後の議会闘争に出るのを目撃した。父の友人バルフォアやローズベリー卿だけでなく、チェムバレン、あるいはアスキス、モーレーなどが、自宅に食事に来たのにもあっている。議会における戦いは酷烈であったが、礼儀と親密さの外見だけは見事に保たれていた。チェムバレンの長男オースティーンが最初の議会演説(処女演説)をしたとき、反対党の首領がそれを賞賛するという慣例に従って、グラッドストーン首相が立った。そして、ごく簡潔に、かつて自分を裏切った政治家の子を讃えて、「その演説は、父の旨には愛しく、さわやかなものであったに違いない」と述べた。傍聴席の床にうずくまり、手摺の間から覗いていたウィンストンは、父チェムバレンの蒼白な顔が安藤で紅潮していたのを見逃さなかった。オーステンのように父の傍にあってともに戦いたいという羨望が、身中にうずいたに違いない。
士官学校での訓練は厳しかったが、チャーチルは充分に楽しんだ。戦史と戦術の研究に打ち込み、乗馬には借金に借金を重ねて(将来の任官時の俸給を担保に)励んだ。一方、士官候補生になってからは、父は新しい格式で彼を遇するようになった。ランドルフは軽業、手品、動物の芸などが好きで、エムパイア劇場にもお供でついていくのを許された。競馬場にも連れていかれたし、時には、政治について話し合うこともあった。しかし、子が少しでも「同志的な関係」を見せると、たちまち怒った。父の秘書が手紙を書くのを手伝わせてほしいと申し出ると、父は顔つきだけで「私を石のように凍らせたという。
両親が留守の間、ウィンストンは最初の政治的体験を味わっている。父にはじめて連れていかれた寄席芸が売り物のエムパイア劇場が、劇場内の酒場と遊歩場(いかがわしい世評の淑女たちが徘徊していた)を劇場から隔てる壁を建てた。それは、ロンドン市の革新市政の一つのあらわれであった。士官学校の生徒たちは面白く無く思い、ある土曜日の夜、一丸となってこの壁を粉砕した。チャーチルはその残骸の上に立って、いやむしろそれに首まで埋まりながら、騒ぎ立つ群衆に次の選挙で市議会の暴政を倒し、「イギリス人の自由」を守るように訴えた。これが非公式ながら彼の処女演説だった。 この年(1895年)1月、父ランドルフが亡くなった。ウェストミンスター寺院の追悼ミサには首相をはじめ大物政治家が列席した。この同じ年、乳母のエヴェレスト夫人も死んだ。彼女は、ランドルフ卿の発病以後、家計費を節約するため解雇されていたが、ランドルフは彼女の貯金を預かり、ロスチャイルドに頼んで有利な投資に回してやったようである。チャーチルは彼女の死に目に会うよう見舞い、葬式にも出席した。そして墓石の費用を分担した。 父の死の直前、チャーチルは士官学校の卒業試験を終えた。130人中の20番であった。入学した時の成績と比べれば、大幅な進歩であった。母の運動が成功して、希望通り軍服の綺麗な軽騎兵第四連隊に任官することができた。「馬を手に入れたかね」というのが、父の最期の言葉であった。自伝によると、「父と同志的関係を結びたいという夢、議会に入って父の傍で父を支持したいという夢は全て終わった。私に残されたのは、父の目的を継ぎ、父の思い出を擁護することだけであった」と述べている。 |