育まれた背景
~士官学校騎兵科~
 

 父母との微妙な距離感
父は、チャーチルのハロー校入学時にはすでに失脚していたが、それでも学校に尋ねてくるのはごく稀なことであった。母が訪ねてくるのも稀であった。母に訪ねて来てほしいと懇願する手紙が遺されているが、16歳になっても「どうか来てほしい」と説に懇願する手紙を書いている。
学校の休暇で家に帰っても、両親は不在な事が多かった。ロンドンの家での朝食の席では、父は新聞を読むのに忙しかった。チャーチルと弟の「二対の丸い目が、優しい言葉を待ち望んで衝立ての影から覗いていた」ことを、母の妹が痛ましげに書き残している。
息子は、当然に両親から無視されていると感じていた。しかし息子は、そのために両親を憎んだり怨んだりはしなかった。逆に、遠ざけられたことによってかえって強い憧憬を抱くようになった。チャーチルの幼児の記憶では、「母は私にとって、宵の明星のように輝いていた。私は母を強く愛していた―しかし遠い距離を置いて」恐らく父は、もっと遠くで眩しく光っていたことであろう。
自伝におけるチャーチルが、自分の学校生活を軽やかな筆致で描きながらも、それを「私の生涯における唯一一つの不毛で不幸な時期」であったと形容しているのは、その辺りに原因があったようである。もともと小さくずんぐりした体躯で、白くて柔らかい皮膚―絹の下着しか着られなかった―をしているチャーチルは、スポーツに適していたようには見えなかった。その彼が、大胆な動きでフェンシングに優勝したのは、潜在的に父の期待に応えたいという衝動に突き動かされていたからかもしれない。彼の大胆さ、そしてやがて芽生えてくる強烈な野心は、決して生まれつきのものではなく、むしろ生得の資質に反した努力の結果として生じたものであった。
 軍人の道を
チャーチルは、玩具の兵隊を、歩兵一師団、騎兵一旅団ほども収集していたが、14歳の時、この兵士たちで遊んでいると、珍しくそれを見に来た父から、軍人になる気はないかと尋ねられた。彼は父の質問に喜び、なりたいと答えた。
当時、良い家柄の子弟に開かれている職業としては、聖職者と法律家と軍人があった。しかし、聖職者と法律家には古典語教育が必要であったから、ラテン語のできないウィンストンには軍人になる事しか残されていなかった。軍国主義の伝統のないイギリスでは、軍人は頭の良い人間の為の職業とは考えられていなかったのである。ウィンストンは、サンダースト王立士官学校に進むことになって、ハロー校の陸軍志望者のための特別クラスに入れられた。このクラスは、他の学生からは「劣等生の天国」と呼ばれていた。

 士官学校騎兵科へ
ハロー校在学中に二度、士官学校受験に失敗すると、士官学校受験用の予備校に送られた。この学校はいわば「傾向と対策」を専門としており、個々の試験官について出題を予想し、それに解答できるよう体系的に訓練した。チャーチル自身の表現によれば、それは「シャコの大群に効果的に大量の散弾を打ちこむ」ようなもので、「生まれつきの馬鹿でない限りは入学を避けられない」ようになっていた。
おかげで18歳になって何とか合格することができたが、合格したのは父の望んでいた歩兵科ではなく騎兵科であった。歩兵将校は従卒の費用だけを自弁すればよいが、騎兵将校は馬の分も負担しなければならなかった。そのため、成績の悪い入学者は騎兵に回されたのである。将校と限らず、「国家の為に奉仕する」名誉と義務を負ったイギリスの高級公務員にとって、給料はいわば小遣い程度のもので、生計は専ら自前の資産に頼らねばならなかった。それだけに、自らの信念に従って自由に辞任することができたが、逆に恒産のない者はそのような職に就くことを望めなかったのだ。




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