育まれた背景
~幼少期~
 

 乳母と家庭教師
ヴィクトリア時代の上流階級の表現に、「子供は見るべきものであって、聞くべきものではない。」というのがある。毎日の決まった時間に、親は子供を謁見する。子供はそれに備えて服装を改め、髪にはブラシをあて、言ってはならないこと、してはならないことをあらかじめ厳しく言い渡されている。許可なくして発言してはならないというのもその一つである。要するに親は、子供がいることから生じる騒々しさ、無秩序から完全に隔離されるのである。ウィンストンの場合、両親が社交と政治に熱中していたために、この隔離は一層完全に行われた。
育児を担当するのは乳母である。生後1か月後に雇い入れられた乳母は、恐らくはその不幸で孤独な生活の代償として、育ての児に惜しみなく愛情を注ぐ。家庭内では、彼女はほかの使用人と区別して「夫人(ミセス)」の称号で呼ばれ、子供の人格形成に決定的な影響を与えるようになる。ウィンストンの乳母エヴェレスト夫人もまたそのような婦人であった。彼女はウィンストンと5歳下の弟ジャックを育て、のちには家政婦としての役割を果たした。チャーチルは自伝「私の半生」の中で、彼女の追憶を温かく記している。そして生涯の終わりまで、彼女の写真を自室に飾っていた。
家庭での育児は乳母に、そして教育は婦人の家庭教師に任せられた。家庭教師と称する「不吉な人物」の到来に備えて、乳母は「泣かずに習える読み方」という本を宛がったが、事は思惑通りには運ばなかったらしい。この家庭教師は後にチャーチル戦時内閣の副首相、そして戦後の労働党内閣の首相となるアトリーの妹を教えたが、この妹を通じて得られた証言によると、幼いチャーチルは傲慢で我儘な暴君として振る舞ったようである。
 寄宿学校
7歳以後の教育は、いわゆる予備校、次いでパブリック・スクールに委ねられた。いずれも寄宿制の学校である。このような上流階級の教育制度は、すでに19世紀半ば、「野蛮人と俗物」-つまり貴族の子弟と新興中流階級の子弟を「紳士」に加工するための工場として確立されていた。それは、乳母に始まる両親からの隔離の制度の延長であった。
最初にウィンストンが送り込まれたアスコットの予備校は、イートン校に進学させることを目指して4年前に設立されたもので、電燈という当時にしては破天荒の近代的設備を有していた。校長の報告によると、ウィンストンは歴史と地理がよく出来たが、「厄介者」で「食事に卑しい」と記されている。家に書き送った手紙では「私は幸せです」と書いたが、休暇で帰った時、エヴェレスト夫人は身体に鞭の跡があるのを発見して母に知らせた。その結果、この学校は2年いただけで、ブライトンの別の予備校に移った。ここでは学習の他に乗馬、ダンス、水泳などがあり、はるかに幸福だったようである。父が政治家として目覚ましい勢いで名声を博しつつある時で、息子はいわゆる親の七光りを楽しんだのかもしれない。
パブリック・スクールには、祖父や父のイートン校ではなく、ハロー校に進んだ。ブライトンの予備校で肺炎を患ったため、彼の「弱い胸」を考えてウィンザーの沼地にあるイートン校よりは、見晴らしの良い丘の上にあるハロー校が選ばれたようである。当時の下院議員にはイートン校出身者が多かったが、ハロー校出身者も56名を数えており、しかもその大部分が保守党に属していた。いわゆる「同窓生の網の目」」は、この国では極めて有効に作用していた。
ハロー校の入学試験では、ラテン語の答案用紙をインクで汚すだけに終わったが、それでも合格した。彼は自伝の中で、このことは校長が「物事の下に潜んでいる物を見抜く能力を持ち、紙の上に現れた物に頼らない人物」である事を示していると書いたが、校長としては、公爵の孫、元蔵相の長男を落とすにはかなりの勇気を擁したはずである。いずれにせよ、もともとイギリスのパブリック・スクールは学業よりも支配階級の後継者になるための「人格形成」に重きを置く学校であった。

 「劣等生」の実態
自伝では、チャーチルは軽やかな筆致で自分が劣等生であったかのように描いている。確かに7歳の時から習っていたにもかかわらず、ラテン語の出来は悪かった。幼いチャーチルには、恐らく判っても判らなくてもまず習得していくという自己規律が欠けていたようだ。数学やフランス語の成績もよくなかった。しかし、古典語を免除される劣等組に入れられたおかげで、普通の英語については徹底的な教育を受けた。やる気になれば、マコーレーの「古代ローマの歌」二千行を一字一句間違えずに校長の前で暗誦して、全校的な賞を受けることもできた。団体競技はうまくなかったが、個人競技のフェンシングでは全国パブリック・スクール対抗の試合で優勝している。「成功の原因は、もっぱら敏速で大胆な動きで相手の不意を突いたことにある」と学校の雑誌が批評している。
友人の数は少なく、その数少ない友人は全て年長であった。ハロー校に入学早々、プールで身体の小さい少年を水に突き落としたが、これが最上級生で寮長、万能の運動選手のレオポルト・エメリーであった。チャーチルは直ちに謝らねばならなかったが、「僕の父もそうだけれど、偉い人だ」と付け加えた。もうひとりの友人ミルバンクは2歳年長で、落ち着いていた。学校に訪ねてきた父ランドルフ卿にたいして「あたかも対等であるかのように」口をきいて、チャーチルをひどく羨ませた。ミルバンクは、のちにチャーチルが立案した第一次大戦のガリポリ作戦で戦死している。




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