育まれた背景 ~前進政策の批判~ |
ブラッド将軍の副官がタイムズ紙の特派員として報告を送り、彼もまた戦記を書いているという噂があったので、彼は昼間の3,4時間を割いて執筆を急いだ。出版社は母が探してくれた。校正刷をインドに送らせると2カ月遅れるので、文才で知られた伯父に校正を委ねたが、これは大失敗であった。しかし、この最初の本は成功であった。群を抜いて高い文学的水準を誇っているアテネアム誌は、「気の狂った校正係が校閲したディスレーリの文体」と批評した。自伝の中でチャーチルは言う。 「読者は、私がそれまで一度も褒められたことがないということを覚えているに違いない。」 その上、僅か数カ月の努力で青年将校の俸給2年分が稼げることを知った。 「私は、新しい自活の道、出世の道が華々しく眼前に開かれつつあるのを感じた。」
チャーチルは、自分の参加した戦闘だけではなく、作戦全般についても行き届いた調査を行った。戦闘がしばしば英印軍の「敗走」に終わったこと、捕えた敵の負傷兵が「手早く始末された」ことや、逆に敵の手に落ちた味方の負傷兵は無残に斬り殺されたこと、あるいは英印軍がダムダム弾を用いていたこと(ダムダム弾の使用は、1899年ハーグ陸戦協定で禁止されることになる)など、一連の不愉快な事実については筆を抑えているが、最後の一章では、イギリス帝国の「前進政策」について自説を堂々と展開している。 彼によれば、「前進政策」は過去のいつの日かに決定された「我が国の影響力を拡大し、確立しようとする」政策の不回避的な結果であった。ある地域を確保しようとすれば、その周辺にも支配を及ぼさざるを得ないし、それはさらに遠くの地域にまで兵を送ることを必要とするであろう。しかし、このようないわば無限の拡張政策は、軍事的にも経済的にも不可能である。イギリス帝国はあまりにも大きく、イギリス本国の国力は限られている。取るべき政策は、たとえ「いささか威厳を欠く」ことがあるにしても、「漸進的な前進、各部族に対する政治的策謀、贈賄、そして小規模な遠征の体制」でなければならない。それによってかえって、辺境に法と秩序をもたらし、野蛮を減少させて、帝国の道義的威信を前進させることが出来るというのである。それは血気に逸る青年将校にしては驚くべき老熟した判断であり、事実、イギリス政府の全般的政策と一致していた。確かに軍部の中には、「全速前進」政策を唱えるものが少なくなかったが、チャーチル少尉は大胆にもこの政治家と将軍たちの間の論争に参加していったのである。 |