白虎隊とは
 ~武器と戦術~
 


 火器及びその調達
中村彰彦氏の著書「白虎隊」のなかで、自刃白虎隊が携帯した小銃は当時、会津藩が使用していたゲベール銃やヤーゲル銃よりも進歩したマンソー銃であった、と新説を披露している。しかし、その他一般は火縄銃や旧式洋銃を使っていたことは、平石弁蔵「会津戊辰戦争」の「しかるに東軍の有する武器は槍または火縄銃にして、白虎隊のみヤーゲル銃と称する洋式後装銃(元込め)を有せしも」とか、大山柏「戊辰役戦史」の「白虎隊はヤーゲル銃より一時代前の火打石ゲベール銃を使っていた」等の記述のとおりである。
また調達面では、「会津戊辰戦史」には、五年余りの京都守護に尽瘁して財力が窮乏し、洋式武器の充実に手が回らず、鳥羽伏見の負け戦で、武器の回収が充分にいかなかった、としつつも、江戸を去るにあたりエドワード・スネルから小銃八百挺等を購入し、かつ旧お台場の大砲などを借りて、幕府船で箱舘経由で新潟から会津領に運搬したとある。
しかし、鳥羽伏見戦から鶴ヶ城落城までの全部をみとった若年寄・手代木直右衛門は、同書で「これらの欠陥、特に兵器の不完全および供給不足は、西軍の兵器の清新にしてしかも供給の自由豊富になるに比し、全局の勝敗に至大の関係を及ぼせしものというべし」と、鉄砲などの質量差が勝敗の帰趨を決したことをはっきりと述べている。
 戦術
軍制と武器に加えて戦術もまた、慶応4年(明治元、1868)3月以降、洋式に改革された。会津藩は天明8年(1788)に、従前の「河陽流」に代えて実戦方式の操練を重んじる「長沼流」を採用し、黒河内褌(ふるう)を御軍事方役に据えたが、鳥羽伏見戦では銃砲の威力に影響され、銃砲戦に適した戦術をとらざるを得なくなる。つまり、古来の刀槍密集突撃戦法から、新たに火器主体の横疎開型・遠距離戦闘への変化であり、中村氏の「白虎隊」では、「兵が縦隊から自由に散開(散兵)して戦う散兵戦術の採用)であり、「兵士各人の左右には広い空間が開けているから自在に行動しやすいという利点がある。ヨーロッパではフランスのナポレオンが最初に散兵戦術を採用し、一連のナポレオン戦争に勝利を収めた」戦法だという。
これを当時の例で示せば、鳥羽開戦の場合、「もともと陣地に定着して横に戦闘展開している薩摩軍に対し、戦闘準備不充分の幕軍が散開もせずに行軍縦隊のまま首を突っ込んでいくのだからたまらない。常に両翼から包囲的に縦斜め射ちされ…(大山柏~戊辰役戦史~」という記述の中には、この新旧両戦術の対象が典型的に示されている。




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