白虎隊とは ~白虎隊の特徴~ |
滝沢峠を越えて西軍が城下に侵入した頃、手薄な守備体制を傍観できず立ち上がった一人の青年がいた。西郷寧太郎18歳。出陣して負傷、帰宅療養中であったが、北大手口でさながら隊長然の指揮をとり、「少年隊を組織し一方の敵に向こうべし」と決断した。城内応援中の少年たちに参加を呼び掛けたところ、みんなが賛成し、「中軍護衛隊」と命名された。中軍とは司令部の事。したがって中軍護衛隊とは藩主護衛隊の意。氏名のわかるものだけで34名。年齢別構成は、18歳1人、17歳2人、16歳2人、15歳21人、14歳8人である。その後、40人以上に増えたという。出陣を申し出たが、家老の梶原平馬に「城中守備無し、城を守るべし」と諭され、西出丸に赴き、防戦につとめた。 二本松少年隊では、63人ちゅう44人が16歳未満だったのとは好対照である。 なお、「会津戊辰戦史」の著者は、戦後、土佐藩板垣退助が「鶴ヶ城の籠城者は士族のみで、一般人民は風馬相関せず」と、会津の農町民は戦争に協力しなかったとする批判に反駁している。
①、日光口(南方) 総督 大鳥啓介(旧幕軍) 副総督 山川大蔵 約1300人 ②、越後口(西方) 総督 一ノ瀬要人 約1300人 ③、白河口(東南方) 総督 西郷頼母 副総督 横山主税 約1300人 ④、大平口(若松と白河の中間) 総督 原田対馬 約700人 ⑤、米沢口(北方) 青龍二番士中隊 約100人 会津藩の正規軍に大島らの旧幕軍を加えて約5000人である。 白虎隊は当初は予備軍なので上記の員数には入らなかったが、4月末からの会津領(越後小出口・白河口)での戦闘開始に伴い、漸次兵力として投入されるに至った。その典型例が7月15日からの白虎寄合隊の越後口参戦と、8月22日からの白虎士中二番隊の白河口・戸ノ口原への参戦である。これに比すれば、7月10日から、士中一、二番隊が藩主松平喜徳(容保の養子)を護衛して白河口を福良に至り、滞在して演習をし、復路も原村を通り猪苗代の土津神社を参拝後帰城したことや、次いで7月28日より、士中一番隊が容保の護衛をして越後口の野沢に8月13日まで滞在したことなどは、周囲の情勢の緊迫ぶりを考え合せると、上級武家子弟たちの戦争ごっこの感が深い。しかしこういう青年たちが、それからわずか10日後には、凄惨な戦闘の場に投入されたのであるから、会津藩にとって、この間の時間の経過は何物にも増して早かったといえよう。 |