白虎隊の悲劇
 ~少年少女たちの殉難~
 


 戦況悪化
慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見で戦端が開かれ、戊辰戦争が始まった。その2日後の1月5日に、17歳の会津藩の少年兵が2名、6日に1名、この戦いで亡くなっている。白虎隊が編成されたのは3月10日に軍政を改革してからであるが、その前から少年たちが戦列に加わっていたことを証明するものである。鳥羽伏見に参戦しているということは、会津藩が京都守護職の任についているときからこれらの少年兵は加わっていることになる。
鳥羽伏見の戦いに敗れた会津藩兵及び旧幕府軍は、立て直しを図るためいったん大坂に引き返したが、前将軍徳川慶喜や会津藩主松平容保などが江戸に急きょ戻ってしまったので、大坂を引き上げることになった。容保は江戸から会津に戻り、3月に会津藩の軍制を改革し、年齢ごとに玄武(50歳以上)、青龍(36~49歳)、朱雀(18~35歳)、白虎(16,17歳)と編成した。
 白虎隊出陣
白虎隊に始めて出陣の命令が下ったのは、5月27日であった。さきに容保が隠居したため新藩主となった松平喜徳が白河城奪還戦の総指揮を執ることになり、猪苗代湖の西、原村に向かったが、白虎隊士中一、二番隊にその護衛役としての出動命令が出たのである。
27日中に原村に到着し、出陣して最初の夜を迎えた白虎隊士の心中はどのようなものであったのだろうか。28日には砲兵隊の演習があり、29日には原村を出発し、白河にさらに近い湖南の要衝・福良村に移った。福良村では新撰組とも合流することになり、白虎隊士にとっては感動することが多かったであろう。だがここで刻々入る白河口の戦況は決して明るいものではなく、会津藩にとっては不利なことが多かったので、白虎隊士の心境もさぞかし苦しいものであったに違いない。6月末頃になると、喜徳は湖東の浜路、山潟、関都を通り、猪苗代の土津神社で戦勝祈願をして、十六橋から滝沢峠を経て無事に若松城へ入ったので、白虎隊も同行した。
7月15日になると、白虎寄合一、二番隊が津川口まで出陣した。15日は天屋村に、16日は野沢に泊まり、17日は鳥居峠を通って津川に到着した。一番隊は新発田街道を進み、領境の赤谷口に出陣した。二番隊は阿賀野川を下り、石間口に着陣した。白虎隊士はここで戦闘に参戦し、戦死者を出している。
25日には新発田藩が降伏し、西軍に加わったことなどで越後口の戦況が厳しくなり、29日になると容保が越後口の総指揮を執るため野沢に着陣した。その時に容保の護衛に当たったのが、白虎隊士中一、二番隊であった。坂下までくると、二番隊は若藩主の喜徳の護衛の為に引き返し、一番隊だけが容保と行動を共にした。8月中頃まで野沢に布陣していた容保は、領東の戦況があわただしくなったので、帰城することになり白虎隊も従った。
 少年少女の悲劇
8月21日には母成峠で会津藩は敗走することになり、攻めた西軍は勝った勢いで猪苗代を制圧し、戸ノ口原まで迫った。母成での敗戦を聞いた容保は滝沢まで出陣した。このときに容保に同行したのが、二番隊であった。8月23日には城下に迫った西軍に対して、城に残っていた兵士は応戦し、白虎隊士たちもこれに加わって戦っている。その後、9月22日に落城するまで、白虎隊士たちは藩兵と行動を共にして、主な戦闘には参戦し各地で戦死している。
少年兵は白虎隊士だけではなかった。14歳から17歳までの少年兵で、他の諸隊に属して戦って戦死したものが112名いたが、白虎隊以外の少年が62名もいた。
会津戦争では少年少女を襲った悲劇がさらに起きている。8月23日、戸ノ口を破った西軍は怒涛のように城下になだれ込んだその日、留守を守っていたかなり多くの藩士の家で婦人や老人、幼い子、少年少女が自邸内で自刃したのである。その数は200人を超すとも言われている。その中の一人、会津藩家老西郷頼母の家では、一族21人が自刃を遂げた。頼母の母や妻、妹、一族の大人たちと共に子供たちが犠牲となった。16歳の長女を始め、13歳、9歳、4歳、2歳の娘たち。西郷家の支族西郷鉄之助の長男5歳、10歳の姉と2歳の妹、親戚の浅井信次郎の長男2歳などである。また、籠城した人々も9月22日の落城までの1か月間は地獄を見る思いであっただろう。城内で亡くなった少年少女も多くいた。
戦争はこういった少年少女たちを巻き込む悲劇がつきものであるが、会津戦争ほどこのような悲惨さを伝えたものは例を見ない。




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