白虎隊の悲劇
 ~埋葬を許されなかった~
 


 官軍と賊軍の扱いの差
靖国神社へ行くと、大村益次郎の銅像が正面に聳えている。彼こそは、西軍の軍防事務局判事となり、上野・北陸・奥羽・箱舘制圧の立役者であった。
この神社は明治2年(1869)5月29日に東京招魂社として戊辰戦争で亡くなった「官軍戦没者の慰霊」の為に創建された。あくまでも「官軍戦没者の慰霊」の為であるから、「官軍」でない人は祀られない。反政府軍の戦没者は、朝廷に逆らった「賊軍」と規定され、神社には祀られなかった。
他の戊辰戦争の史跡を訪ねてみても、「官軍」とそうでない旧幕府軍の墓の差がはっきりしている。「官軍」の戦死者の者は立派な墓がたてられている。「官修墓地」と呼ばれ、当時の政府が建立したものである。一方、官軍と戦った旧幕府軍戦没者の墓は、概ね質素なものである。ここに敗者と勝者の差を実感する。
 埋葬が許されなかった
会津戦争の戦死者埋葬時にも同じことが起きている。9月22日、若松城が会場となり会津戦争が終わると、会津各地に放置されていた戦没者の遺体の埋葬について、会津藩士や周辺住民のなかで早急に行われるよう要請が出された。遺体の損傷は酷く、野犬にも食いちぎられ、見るも無残なので、会津の人たちは懇ろに弔うよう懇願した。だが西軍は、会津藩氏や旧幕府軍の戦死者は賊軍であるため、勝手に埋葬することをきつくとがめた。
ようやく遺体の処理が始まったものの、藩士ではなく従来の罪人を取り扱う人々によって行われたので、その取扱いは乱暴極まりないものであったという。埋葬地も、会津藩時代罪人を埋めたところを予定されたので、場所の変更を再三にわたって懇願したところ、寺院への埋葬は若松市内では長命寺と阿弥陀寺に限って許されたが、死者の取扱者は従来通りとされた。そこで、藩士の伴百悦は身分を罪人取扱者と同じにして、自ら埋葬の指揮を執ったという。伴らが所属した「埋葬方」の記録では、阿弥陀寺・長命寺・光明寺、馬入村、金堀明神下、大内村、関山村、西円寺など16か所である。
 白虎隊士も・・・・
飯盛山で自刃した白虎隊士の埋葬についても同様なことが起こっている。白虎隊記念館の館長だった早川喜代次氏による「史実会津白虎隊」のなかで、大正2年「若松新聞」に寄稿された旧会津藩士町野源之助の一文に次のような記事が載ったことが紹介されている。
「滝沢村の吉田伊惣次氏は、飯盛山中腹の白虎隊士たちの死体を見て同情のあまり二個の棺桶を作り四名を入れて妙国寺に葬りましたところ、西軍の耳に入り、我ら四人は大町融通寺の西軍事務局の白州で取り調べを受け、誰に頼まれたと聞かれましたが、結局4日間留置処分を受けて帰りました。~中略~ 西軍に断らないと重罪にされるので白虎隊士の埋葬を再三懇願したのですが、埋葬については江戸に伺い中だからと一向にらちがあきませんでした。そのうち結局副総裁の三宮幸庵という人が、致し方ないから私が黙認しましょう、ということになり埋葬した。」「白虎隊士の墓は当初16人でしたが、明治23年の改修の時に周辺で自刃した3名を加えて19名になりました」飯盛山で自刃した白虎隊士たちも、このような無残な取り扱いを受けていたのである。




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