武士道とは何か ~高き身分の者に伴う義務~ |
武士道を生み、そして育てた、社会的状態が失われてからすでに久しいが、あの遥かな遠い星が、かつて存在し、今でも地上に光を降り注いでいるように、封建制の所産である武士道の光は、その母体である封建制度よりも長く生き延びて、この国の人の倫のありようを照らし続けているのだ。 英国の政治家のバークは、武士道のヨーロッパにおける原型である騎士道の、すでに顧みられることのない棺に、感動的な賛辞を与えたが、今私は彼の国の言葉を持って、この問題を考察することに、大いなる喜びを感じている。 あのジョージ・ミラー博士(アイルランドの歴史家)のような博学な学者ですら、極東における悲しむべき情報の欠如から、東洋には古代にも近代にも騎士道やそれに類する制度は一切存在した事がないなどと断言したが、このような無知は許されるべきであろう。何故なら、博士の著作の第三版が出たのは、ペリー提督が我が国の鎖国の門を開いたのと同じ年だったからである。
ヨーロッパと日本の封建性や騎士道と武士道の歴史的な比較研究は、大変魅力的なものであるが、それを詳述することが本書・武士道の目的ではない。私(新渡戸)が試みようとするものは、まず第一に我が国の武士道の起源と源流であり、第二にその特性や教訓、第三はそれらの民衆におよぼした影響、第四はその影響と継続性、永続性について述べるところにある。 これらの項目のうち、第一については簡単に済ませよう。第二の点はやや詳細に述べる。国際的な倫理道徳学者や比較行動学の研究者たちが、我が国の思想や行動様式について最も興味を引きそうだからである。その他は付随的に扱うものとする。
このように文字上の意味を確認したうえで、私(新渡戸)はこれ以降、武士どうなる日本語を使わせていただくことにする。原語を使う事は次の理由からも望ましい。つまり、これほど限定的で独特な、しかも独自の気風や性格を生んだわが国固有の教訓は、それと分かりうる特徴的なしるしを前面に帯びていなければならないからだ。加えて民族的な特性を持ったある種の言葉は、国民的音色を持つものであって、たとえ最高の翻訳者であっても、その言葉の神威を正しく伝えることは至難の業なのである。 ドイツ語のゲミュート(gemuith)を翻訳して、その意味をよりよく表せるものが誰かいるだろうか。あるいは英語のジェントルマン(gentleman)とフランス語のジャンティオム(gentihomme)とは、原語的にはきわめて近い言葉であるが、この二つの言葉の間にある意味の差を感じないものがいるだろうか。 |