斉彬のブレーン 
~琉球問題と水戸老侯斉昭~
 


 相次ぐ外国艦船の琉球来航
清国がアヘン戦争で負けて、天保13年(1842)8月、英国と南京条約を結び、香港を割譲し、五港を開港したことは、清国の鎖国政策が打破されたことであった。この事実は、欧米列強の東洋進出を促したのである。米国は清国と弘化元年(1844)7月に、仏国は同年10月に、それぞれ条約を結んで、新たに東洋進出の仲間入りをする。その余波は薩摩藩の属領琉球王国にも及ぶのである。
弘化元年3月、仏国軍監一隻が来航して、仏清両国の関係がますます親密を加えようとするとき、琉球とも条約を結びたいとして、通信・布教・貿易の三カ条を要求した。中山府はこれに応じなかったが、背後にあって拒否を指令したのは、薩摩藩から出張の在番奉行であった。艦長はカトリック宣教師フォルカドと清国人通詞を強いて残留させ、近時、提督搭乗の艦隊の来航する趣旨を告げて出航した。翌2年は、5月と7月に英国軍監一隻が来航したが、仏国艦隊の来航はなかった。
弘化3年になって、4月、英国船一隻が来て、プロテスタント宣教師ペッテルハイムと、その妻子及び清国人通詞を強いて残留して去った。しかるに英国船の停泊中、仏国軍監一隻が来航し、艦長は清国とすでに条約が締結され、近日中に提督が来航する旨を告げて、付近の測量を開始した。5月になってセシユ提督が軍艦2隻を率いて来航し、通好互市を要求して、参考として黄埔条約の訳文を示した。閏5月、中山府は在藩奉行の指令に従い、これに応じなかったので、提督は新たに宣教師ル・チュルヂュを留め、フォルカドを伴い、仏国艦隊はようやく琉球を出航した。先発艦の来航以来、実に2カ月半に及ぶ長期碇泊であった。
相次ぐ外国艦船の琉球来航は、薩摩藩にとって一大事であった。弘化元年、仏艦来航の変報は、鹿児島から江戸に達し、藩主斉興から幕府に届けられた。斉彬は老中阿部正弘と親交があったので、密かに対策を協議した。斉彬は海外事情に注目し、鎖国を固守することの困難を察して、しばらく琉球を持って外国折衝の地とし、薩摩藩自らその任に当たることを建策した。鎖国政策をとる清国の敗退、そしてその門徒開放は、同じく鎖国政策をとる幕閣有司のみならず、諸侯に大きな衝撃を与えた。清国の覆轍をふむべからずとは、識者の掛け声であったが、斉彬の開国策はあまりにも重大なので、決定には至らなかった。
 水戸斉昭との書信の往復
琉球が重大時局を迎えようとする弘化年代に入って、斉彬と水戸老侯斉昭との書信の往復が始まった。それは主として互いに蔵書を借覧するためのものだったが、時に斉昭は書中で琉球の異国船の事を質すことがあった。斉彬はこれに答え、弘化2年5月2日には、未だ跡船も見えずと述べ、10月12日には、琉球滞在の仏入は、中山府が清国に交渉して後続船で帰国させる旨を述べ、翌3年2月20日には、琉球はまずまず平和、と述べていたのである。セシユ提督来航の3か月前のことであった。
弘化3年は丙午の年に当たっており、古来、丙午と丁未の両年は災禍が多いと伝えられてきた。斉昭には、本邦往古から丙午・丁未の両年間に起こった事実を網羅した「丙丁録」という本があった。天保年間に編集したものである。これによると、同年閏5月20日の夕、斉彬から、仏国軍艦が琉球に来て、近く提督が来航するとの予告の内報が入った。21日、斉昭は早速「丙丁録」を送って、批評を求めた。暗に禍の起こる前に注意することを望んだのであった。
翌22日、斉彬は「丙丁録」の借款の礼を述べるとともに、英国船が医師(宣教師)と妻子を残留して退帆したこと、仏国軍監に続いて、琉球からのその後の情報では、提督指揮下の軍監二隻の来航を報じた。次いで24日、斉彬は琉球の形勢とその対策を述べて、斉昭の意見を求めたのである。すなわち、琉球の地形・国情・人情・風俗・武備を述べ、通商を許さなければ滅亡のほかなく、清国福建か属島にてこれを許し、通信・天主教は拒絶してもすむと思われること、打払いは残念ながら不可能のこととし、斉昭の意見を求め、なお、老中への声援を依頼したのである。
一方、幕府に対しては25日、斉興が家老調所笑左衛門を阿部閣老邸に遣わして、外国艦船の琉球渡来の事情を述べ、この地に限って貿易を許し、患害を一島で阻止することを説き、28日には斉彬を帰藩させ、その処置に当たらせることを請い、幕府から許された。こうして6月1日、斉興・斉彬父子は登城して将軍家慶に謁し、琉球の処置を幕府から委任されたのである。
 斉昭とは相容れぬ関係
斉彬は6月8日、江戸を発し、7月25日に帰藩すると、翌日直ちに琉球に対して、通信・貿易はやむを得ない場合に限って許すも、布教は固く拒絶すべきことを命じ、城代家老島津豊後を召し、琉球においては努めて外国人の意を損じることのないよう内訓した。さらに斉彬は新納四郎左衛門に密命を与え、9月28日、在番奉行倉山作大夫らと共に琉球に派遣した。10月3日、両人は中山府高官を奉行所に招いて、仏人らの要求を拒むことができぬ場合は、通商の一条は許し、その方法として、運天に出島を造って商館を建て、資本は薩摩藩から小判金一万両ないし二万両を下し、なお、和産の反物類をも下し、仏人持参の物品と交易すべし、との斉彬の密命を達した。しかし、中山府は小国の故を持って辞したので、実現には至らなかった。おそらく斉彬には、幕府の長崎貿易に楔を打ち込もうという意図があったと思われる。
斉彬が帰藩した7月25日、琉球では仏国軍艦が来航し、新たに宣教師アドネを残留させ、8月には英国軍艦三隻が来航する等、多事を極めた。中山府吏も在島の薩摩吏も隠忍自重して外国人に接したので、琉球は小康状態を保ちえたのである。
弘化3年6月1日、薩摩藩が幕府から琉球処置を一任されたことは、阿部閣老と親交があった斉彬の功績だった。斉彬が琉球対策で意見を求めた水戸老侯斉昭との関係は、斉昭の海防意見を高く評価し、大船建造の解禁等では意見が合致したが、貿易問題では、開国は時代の趨勢とする斉彬と、攘夷論者の斉昭とでは、氷炭相容れぬものがあった。斉彬が鹿児島から出府した後の翌4年6月23日、琉球対策について、斉昭の質疑に「当時之処、とかく寛之方計りに相成候間、・・・私存候処は、商館是非取建候様相成る可く、左様得ば追々隋従之姿に相成る可き事と痛心仕候。今少し猛手段これ有り度と、内心存候計りに御座候」と答えたことは、中山府に達した密命と全く相反するものであった。中山府への密命が斉彬の本心であり、答弁は攘夷論者の斉昭を意識したものであって、琉球問題では充分戒心して接したものと思われる。
斉昭は9歳年長であり、しかも家格が御三家とあっては、斉彬のブレーンであり得ないことは明白で、両社は国事について互いに意見を開陳し合う、良き相談相手と見るべきである。




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