斉彬のブレーン 
~斉彬と同志の諸侯~
 


 江戸にあって諸侯と交わる
嘉永4年(1851)2月2日、島津斉彬は父の斉興が61歳で隠居した跡を受けて、43歳で襲封した。翌3日、斉彬は薩摩守と改めたい旨を幕府に伺い、即日これを許された。斉彬は直ちに老中首座阿部正弘はじめ老中方を廻勤し、殊恩を謝したのであった。
斉彬はすでに不惑を越えての襲封であったが、つねに江戸にあって、三十代の頃から西南雄藩の世子として、天下の諸侯と交わりを結んでいた。斉彬の人物を見込んで、自邸において阿部閣老との面接の労を取ったのは、越前藩主の松平慶永(春嶽)であった。この間、斉彬が早くからしばしば書状を交わしていたのは、前水戸藩主の徳川斉昭であった。また、尾張藩主徳川慶勝と会談したことは、嘉永2年10月9日付の書状で、松平慶永に報じている。同年12月に高崎崩れが起こったとき、もっとも斡旋に努めたのは、大叔父の筑前藩主黒田斉溥であり、親友の宇和島藩主伊達宗城であった。また、斉彬の妹は土佐藩主山内豊照に嫁いでいるので、のちに将軍継嗣問題で奔走した豊信(容堂)は養祖母に当たる。
 一目置かれていた斉彬
斉彬が43歳で藩主となったとき、すでに斉彬には阿部閣老をはじめ、天下の諸侯に多くの知己があった。嘉永4年の時点で阿部は33歳、徳川斉昭は52歳、尾張徳川慶勝は28歳、黒田斉溥は41歳、松平慶永は24歳、伊達宗城は34歳である。斉彬より年長なのは斉昭のみ。大叔父に当たる黒田斉溥でさえ2歳年下であり、あとは30代、20代であった。年齢の上から、天下の諸侯に伍して斉彬が世子時代から一目置かれていたことが察せられる。もちろん、年功の面からのみならず、斉彬が高い見識と深い教養とを備えていたからでもある。
斉彬は資性聡明に加えて、曽祖父重豪の感化を受けて、早くから西洋文明に関心を寄せ、海外の事情に通じていた。薩摩は琉球を所領としていたが、実質的には日清両属の形態にあって、その統治は複雑であった。加えて弘化年代に入ってから、ペリー艦隊など外国艦隊の渡来が相次いで、外国人滞留問題さえ生じていた。斉彬としては外交問題、ひいては海防問題まで考えざるを得なかったのである。その識見は、世子時代から他の諸侯に抜きんでていた。攘夷論者として知られ、海防について一見識を持つ水戸斉昭が、弘化年中から斉昭と頻繁に文通していたのは、おそらく斉彬の識見、特に海外の事情に精通していた点に惹かれたからであろう。
 孤独だった斉彬
斉彬を擁立しようとして起こった高崎崩れは、嘉永2年12月から約半年に及んだ。この間、江戸詰め家老島津壱岐以下、有能な士はことごとく斥けられた。斉彬は生母の孝悌友愛の教えを守り、隠忍自重、一門の平和を保つことに努め、嘉永4年2月、遂に藩主の座に就いた。すでに斉彬の周囲には、側近として補佐すべき士はいなかった。のちに活躍する西郷隆盛にせよ、大久保利通にせよ、当時はそれぞれまで25歳、22歳に過ぎない。斉彬はむしろこれら少壮有為の士の育成に努めたのである。斉彬は英名の資質から、世子時代からあえて人を待つことなく、ことごとく自発に出た主導型藩主の器を備えた名君とみるべきである。その意味では、斉彬にブレーンはいなかったのである。
斉彬は藩政を執ること8年、一薩摩藩の興隆に力を尽くしたが、その本領とすべきところはむしろ、国事の周旋であった。ここにおいて斉彬は、初めて同志の諸侯と協力して、国事に尽瘁するのであった。国事周旋の上では、同志の諸侯こそ斉彬のブレーンといえるのではないだろうか。




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