斉彬のブレーン ~斉彬と同志の諸侯~ |
斉彬はすでに不惑を越えての襲封であったが、つねに江戸にあって、三十代の頃から西南雄藩の世子として、天下の諸侯と交わりを結んでいた。斉彬の人物を見込んで、自邸において阿部閣老との面接の労を取ったのは、越前藩主の松平慶永(春嶽)であった。この間、斉彬が早くからしばしば書状を交わしていたのは、前水戸藩主の徳川斉昭であった。また、尾張藩主徳川慶勝と会談したことは、嘉永2年10月9日付の書状で、松平慶永に報じている。同年12月に高崎崩れが起こったとき、もっとも斡旋に努めたのは、大叔父の筑前藩主黒田斉溥であり、親友の宇和島藩主伊達宗城であった。また、斉彬の妹は土佐藩主山内豊照に嫁いでいるので、のちに将軍継嗣問題で奔走した豊信(容堂)は養祖母に当たる。
斉彬は資性聡明に加えて、曽祖父重豪の感化を受けて、早くから西洋文明に関心を寄せ、海外の事情に通じていた。薩摩は琉球を所領としていたが、実質的には日清両属の形態にあって、その統治は複雑であった。加えて弘化年代に入ってから、ペリー艦隊など外国艦隊の渡来が相次いで、外国人滞留問題さえ生じていた。斉彬としては外交問題、ひいては海防問題まで考えざるを得なかったのである。その識見は、世子時代から他の諸侯に抜きんでていた。攘夷論者として知られ、海防について一見識を持つ水戸斉昭が、弘化年中から斉昭と頻繁に文通していたのは、おそらく斉彬の識見、特に海外の事情に精通していた点に惹かれたからであろう。
斉彬は藩政を執ること8年、一薩摩藩の興隆に力を尽くしたが、その本領とすべきところはむしろ、国事の周旋であった。ここにおいて斉彬は、初めて同志の諸侯と協力して、国事に尽瘁するのであった。国事周旋の上では、同志の諸侯こそ斉彬のブレーンといえるのではないだろうか。 |