仏教とは ~二つの止~ |
瞑想の内実とはどのようなものであったのだろうか。それは、バリー語で言えば、サマタとヴィパッサナーであった。中国では、前者は止、後者は観と漢訳された。いわゆる止観である。日本では止観という用語とともに禅という用語が一般化し、禅または止観で一つのものと考えられることが多いが、基本的には禅は止の一部分であり、止と観とは、両社ともぞれぞれ異なる者として存在した。止と観のどちらにも共通する性質は、心を一つの対象に結び付けることである。もっとも基本 は入る息、出る息を対象としてそれに気づくことであるとされる。 最初の段階とされた止は二つの類型に分けられ、それは三昧と禅定に分けられた。三昧は、鳩摩羅什の頃の古い訳語では(正面から受容すること)とされ、玄奘以後の新しい訳語では心一境性(心を一つの対象に向けること)とされた。そして、三昧の実習から次第に心の働きが静かになっていくと、それは禅定に進むものととらえられた。 禅定の中には、最初の四つの段階、すなわち四色界禅があり、初禅、第二禅、第三禅、第四禅と進む。このうち初禅は、心が静まりはじめ、何かあるのではないかと探すはっきりとした心の働き(尋)や、微細でつかまえにくい同じ働き(伺)、そして喜びや安楽な気持ちが生じる段階である。やがて、それらの働きも滅し始め、二禅、三禅、四禅と進み、やがて次なる新たな境地へと進む。これが四無色界禅である。このときには、つかまえられる対象(色)となるものがないため、無色界禅と呼ばれる。その最初が、空間が無限に広がっているように感じられる空無辺処、認識のみが無限に存在しているように感じられる識無辺処、何もないのだなと感じられる無所有処、そしてつかまえることが難しいくらい微細な働きしか残っていない非相非非想処が訪れる。そして、最終的には心に何ものも働きが生じない、滅尽定が訪れる。このように、心の働きの止滅に向かって、心の観察を続けていくのが止である。。 |