ビザンツ帝国の統治の枠組み ~地理的枠組み~ |
帝国の首都は「新ローマ、すなわちコンスタンティノーブルであった。この帝都は、330年にコンスタンティヌス帝により建設され、開都されていた。皇帝の座所であり、中央政府と二つの軍団が存在していた。これらの事実がこの町に歴然と政治的重要性を与えていた。成功を求めて、人々が帝国内のあらゆるところからこの帝都にやって来た。そこは、この上なく多様な諸文化が豊かに交流している空間だった。6世紀当時、コンスタンティノーブルは人口40万人。人によっては60万人という意見もある。
コンスタンティノーブル市内の中心はアウグステオン広場である。そこには、都市ローマの黄金製里程標ミーリオンの模造品が置かれた。それは、あらゆる街道の起点であり、コンスタンティノーブルがローマ同様「世界」の中心である事を示すものだった。アウグステオン広場の周辺には、ハギア・ソフィア聖堂、元老院議場、ゼウシッペ浴場があった。ハギア・ソフィア聖堂は、コンスタンティヌス帝下で建設が開始され、コンスタンス帝時代(337~340年)に完成、テオドシウス2世によって再建された。ゼウシッペ浴場は、ギリシア世界各所から持って来られた彫像で飾られていた。アウグステオン広場は、ハルケと呼ばれる玄関ホールに通じる広場に繋がっていた。そこは「白刃」の衛兵が警固し、ブロンズ製の屋根に覆われたホールであり、そこから大宮殿に入り、またヒッポドローム(馬車競技場)の入り口に至るものだった。大宮殿は、ヒッポドロームと海の間に広がる台地に作られていた。それは、一大複合建造物であり、種々の広間、礼拝堂、中庭、庭園があった。歴代皇帝は一体性をあまり配慮せず、それぞれに建築物を付け加えていったのである。 この場所から西に一本の大通り(メセ―)が伸びていた。この大通りの沿道には、列柱の並ぶ柱廊がしつらえられ、いくつかの広場で区切られていた。メセ―は二つの道に分かれていたが、そのうちの一つの道は、歴代皇帝が埋葬された聖使徒教会の脇を通った。その道のりには聖マリア教会があり、この教会はビザンツ人から大変崇敬されていた。 コンスタンティノーブルには、8つの浴場を含む多くの公共建造物が存在した。町中いたるところに教会、礼拝堂、殉教者教会が多く点在した。おそらく100程度は存在したと思われる。
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