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代議士・外交官時代
~政治家としての初舞台~
 

 連合州議会に出席
ビスマルクがヨハナと結婚する2か月前の1847年5月初め、彼はプロイセン領ザクセン州の「騎士身分」から選出された補欠議員として連合州議会に出席し、ここに政治家としての初舞台を踏むことになった。
当時、プロイセンには憲法もなければ国民を代表する全国的な議会も存在せず、ただ各州に前近代的な身分制議会が設けられているだけであった。変化が生じたのは、1840年代後半のことであった。プロイセン政府はベルリンからケーニヒスベルクまでの鉄道敷設を試みるが資金難に喘ぎ、それを打開すべく国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世がすべての州議会の議員をベルリンに招集したのである。
こうして1847年4月11日、第一回連合州議会が開催されたのだが、わずか2カ月で閉会する。その理由は、集まった議員たちがプロイセンを近代的な立憲国家に移行すべく、先王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世が1815年に約束して未だ果たされていない憲法制定と国会開設を強く求めて、国王側と激しく衝突したからである。こうした近代的な要求は、「王座のロマン主義者」と称され、前近代的な国王のあり方を理想視するフリードリヒ・ヴィルヘルム4世からすれば、到底受け入れられないものであった。これによって政治危機は深刻度を増し、同時期に発生した経済危機とそれに伴う社会不安とが相まって、翌48年のベルリン3月革命に至る事になる。
 政治家に転身したきっかけとは
ビスマルクが政治家に転身するきっかけになったのは、彼に少なからぬ影響を与えたマリー・フォン・タッデンも属していたポメルンの敬虔主義サークルであった。ここには、保守派の論客として名高く、後にポメルン州知事となるエルンスト・ゼンフト・フォン・ビルザッハや国王側近グループの一人であるマクデブルグ高等裁判所長エルンスト・ルートヴィヒ・フォン・ゲルラッハも出入りしていた。その兄レオポルト・フォン・ゲルラッハは国王と親交があり、高級副官を務めるなど、国王側近グループの中核的存在であった。彼らを通じて、ビスマルクはベルリンの政界に通じるコネをつかんだのである。
こうした政治的な交流を通じて、1846年にはエルベ川堤防監督官に就任し、また47年初めにかけてユンカーの伝統的な特権の一つである領主裁判権を官僚側に対抗して保持し続けようと政治運動を展開していた。このような状況下で、先述した第1回連合州議会が召集され、最年少の議員として参加が許されたのである。
ビスマルクの最初の発言は5月17日であった。ある議員が、1813年の解放戦争参加者のモチベーションが、ナポレオン支配に対する憎悪と憲法制定への希求にあったと発言すると、ビスマルクは次のように反論したのである。
 ビスマルク初演説
憲法を要求する演説の際、この壇上でも、さらにはこの議場の外でもしばしば声高に叫ばれておりますが、1813年の国民運動があたかも他国者が我らが国土に与えた屈辱とは異なる理由に帰せられなければならず、またそれとは異なる動機を必要としていたかのような発言に対し、私は断固反論しなければならないと感じております。プロイセンが他国の支配者によって被った虐待と屈辱が、自分達の血をたぎらせ、他国者に対する憎悪によって我を忘れさせるのに十分でないと思うのであれば、私が思うに、それは国民の名誉に傷をつけることを意味するのです。
彼の演説は、解放戦争を支えた理念を、彼特有の皮肉を交えながら、反立憲主義のニュアンスで曲解したものに他ならなかった。議場には解放戦争にも参加していない青二才に当時の自分達の崇高な理想が穢されたかに等しいものであった。城内での猛反発の怒声が鳴りやむことはなかった。
こうしてビスマルクの名は一気に広まっていくのであるが、周囲の人々による彼の評価は6月1日の演説を通じて定まる事になった。「今や問題は、誰が信頼すべき、法的拘束力のある宣言を発する権利を有するかということです。私が思うに、それはただ国王のみであり、この確信はわが国民の法意識の中に存在するものと信じております」と論じて、彼は国王の有する権限を強調する。そしてイングランドの名誉革命の事例を引き合いに出しながら、次のような有名な発言をするのである。
それに対してプロイセンの君主は、国民からではなく神の恩寵によって実際に絶対的な主権を有し、その権利の一部を自発的に国民に与えられたのです。




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