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破天荒なビスマルク ~母親の教育方針~ |
彼女の教育方針の下、ビスマルクは6歳の時に、兄のベルンハルトと同様にベルリンのプラーマン寄宿学校に送り込まれることとなった。ここでの6年間は、彼にとっては相当過酷なものであり、彼はいつも自分が幼少期を過ごしたポルメン地方(現在のドイツ東北部とポーランド西北部一帯に広がる、バルト海に面した地域で、プロイセン王国の州の一つ)にあるクニーブホープへの想いを募らせていた。彼は後年この時の事を、一向に衰えを見せぬ嫌悪感を籠めて次のように述懐している。 「私の幼年時代はプラーマン校で台無しにされてしまったのだが、そこは私にはまるで監獄のようであった。そのため、幼き私は当然の事ながら歪められてしまった。窓から牛車が轍を刻んでいるのを見るたびに、クニープホーフが恋しくて泣かずにはいられなかった。」
この時期に特筆すべき事があるとすれば、それは家庭教師の尽力もあってか、彼がフランス語を完全に物にするだけでなく、英語も流暢に話せるようになった点であろう。この語学の能力は、後に彼が政治・外交活動をするようになって初めてその真価を発揮することになる。 |