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破天荒なビスマルク
~母親の教育方針~
 

 寄宿学校での辛い6年間
少年ビスマルクの進路とそれに伴う教育方針の主導権を握ったのは、温厚で朴訥な父親ではなく、華やかで虚栄心が強く、知性の面で遥かに夫よりも勝る母親の方であった。彼女は、自分の息子がうだつの上がらない夫のような人間ではなく、自分の父親のような政府高官になってほしいと望んでいた。
彼女の教育方針の下、ビスマルクは6歳の時に、兄のベルンハルトと同様にベルリンのプラーマン寄宿学校に送り込まれることとなった。ここでの6年間は、彼にとっては相当過酷なものであり、彼はいつも自分が幼少期を過ごしたポルメン地方(現在のドイツ東北部とポーランド西北部一帯に広がる、バルト海に面した地域で、プロイセン王国の州の一つ)にあるクニーブホープへの想いを募らせていた。彼は後年この時の事を、一向に衰えを見せぬ嫌悪感を籠めて次のように述懐している。
「私の幼年時代はプラーマン校で台無しにされてしまったのだが、そこは私にはまるで監獄のようであった。そのため、幼き私は当然の事ながら歪められてしまった。窓から牛車が轍を刻んでいるのを見るたびに、クニープホーフが恋しくて泣かずにはいられなかった。」
 勉学に励む
1827年になると、少年ビスマルクはようやく「監獄」生活から解放される。彼は、大学進学を念頭に入れた、古典語重視の中等教育機関であるギムナジウムに籍を移した。ベルリンでは両親が用意した住居に兄や家政婦と共に暮らすようになり、彼を取り巻く外的環境は大きく変わった。だが、この時期を振り返る時も、彼はどこか冷笑的なところがあった。晩年にの著した回想録「思う事、思い出すこと」のなかでさえ、彼は自分の事を「我が国の教育の標準的な産物」と述懐するほどである。
この時期に特筆すべき事があるとすれば、それは家庭教師の尽力もあってか、彼がフランス語を完全に物にするだけでなく、英語も流暢に話せるようになった点であろう。この語学の能力は、後に彼が政治・外交活動をするようになって初めてその真価を発揮することになる。




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