米軍基地の世界的ネットワークの形成
 ~戦中戦後の基地計画構想~
 


 国際警察軍のための空軍施設の研究
第二次世界大戦のための米軍の海外展開と並行して戦後をにらんだ基地計画の検討が始められていた。1942年12月ルーズベルト大統領が統合参謀本部(陸軍と海軍を統括する組織として42年2月に設置)に対して、戦後に創設されることになるであろう国際警察軍のための空軍施設の研究を指示した。
統合参謀本部は、大統領の指示に基づきながら、同時にアメリカの安全保障のための戦後基地計画も含めて、統合参謀本部の中に統合参謀計画部や統合戦略調査委員会を設けて検討を開始した。
43年3月に統合戦略調査委員会から統合参謀本部に提出された文書JSSC9/1中では、「米国によって保持され、あるいは管理された十分な基地は必要であり、その獲得と発展は我々の主要な戦争目的の一つとして考慮されなければならない」とアメリカのための基地確保の意図をはっきりと示していた。また同時に「国際的な軍事目的とともに商業目的のために、北方、中央、南方の大西洋横断ルートは完成し維持されるべきである。南西太平洋への現在の航空ルートは軍事目的と米国の商業目的のために維持発展されるべきである」と商業航空のためのルート確保も考えていた。つまり、国際警察軍だけでなく、米本土防衛というアメリカ自身の軍事目的と商業目的も意図されて戦後基地構想がつくられていったのである。
統合参謀本部は43年11月に大統領にまとまった基地プランであるJCS570を提出した。ここでは対独対日戦のための基地と、戦後四大国によって維持される基地のプランを示した。そのなかで、戦争終了後、国際組織による安全保障体制が整備されるまでの段階において、アジア太平洋地域に39、大西洋などに33の空軍基地を確保することを提案している。このプランは「基地聖典」と呼ばれ、基地建設にとって重要な文書となった。さらに44年1月からは、航空基地だけでなく海軍と陸軍の基地を含む計画の検討へと拡大された。
 基地確保のための様々な構想
基地確保のためにはその土地の購入、借用、政府間協定による提供など様々な形態が考えられ、そのためには受入国との交渉が必要であった。その交渉は国務省の管轄であるので、国務省も議論に加わるようになったが、しばらくは当面の戦争遂行が優先されて、戦後基地計画の準備は進まなかった。
日本との関係では、44年1月には統合参謀本部は、「日本の委任統治領は米国の防衛にとって決定的な関係を有している。それらの地域を米国が保有し管理することは我が国の安全保障にとって緊要である」と主張し、サイパンなどマリアナ諸島を含む島々を米国が保有する必要性を明確にしていた。
ただし国際連盟の委任統治領であったそれらの島々の扱いは、創設が検討されていた国際連合との関係があり、44年8月統合参謀本部は、ソ連の介入を恐れ信託統治や領土問題は日本の敗北後に延ばすように国務長官に提案し、事実上棚上げされた。しかし国連創設を巡って議論せざるを得なくなると、45年2月統合参謀本部は、米国の防衛の必要性を十分に考慮すること、米国領ならびに米軍が占領した日本領については議論しないこと、北半球の日本委任統治領の管理について他国の要求を認めるような協定は議論しないことなどを求めた。
 戦後基地構想の検討再開
戦後基地構想の検討は、対独戦の行方が見えてきた45年3月ごろから再開され、本格的に議論されるようになるのは、ドイツの降伏、沖縄戦の最中という状況下の45年5月からであった。
米軍が沖縄本土に上陸した4月1日、海軍作戦本部長のアーネスト・キング提督は、統合参謀本部に意見書を提出し、そのなかで、琉球を含む排他的な軍事的権利を有する地域にするよう求めた。また5月7日には「戦後基地計画第1号」と題された海軍のプランを作成、そこには、太平洋と大西洋に75以上の施設を求めていた。そのうち53が太平洋地域であり、フィリピン、グアム・サイパン、小笠原・硫黄島、琉球などが含まれている。この時期、海軍は沖縄を重視していることが伺える。
他方、陸軍の航空輸送司令部は、「現在の戦争は、われわれの生産能力の適切な活用のために国際的な貿易に依存しなければならないほどに、われわれの経済生産能力を拡大した」、アジア諸国が「アメリカの主要な顧客」になるチャンスを逃してはならないと、アジアへの関与の重要性を主張していた。
ポツダム会談終了後の8月7日、トルーマン大統領はラジオにおいて、「われわれの利益ならびに世界平和の完全な保護のために必要な軍事基地を維持する」と演説し、海外基地確保の位置を表明したのである。




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