幕府政治の移り変わり
 ~徳川将軍家の終焉~
 


 幕末の政治情勢
水野忠邦の後を受け、弘化2年(1845)から老中首座となったのは阿部正弘である。正弘の在任は13代将軍家定の安政4年(1857)まで続くが、その間、対外関係はいよいよ緊迫していくことになった。アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーの来航、総領事ハリスの下田着任などもこの時期である。正弘は西洋列強の軍事力に押されてアメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダと和親条約を結び、鎖国の祖法を破ったが、他方では幕政の改革を行っている。
この改革の大前提は思い切った人材の登用である。幕閣における正弘の政治的成果は必ずしも十分であったとは言えないが、古い格式に捕らわれない斬新な人事が、新しい政治を切り開いていったと言ってよい。
このような門閥よりも能力を重んじる人材登用策は、幕府のそれまでの身分人事から能力人事への転換が行われたことを意味する。人材の抜擢はすでに江戸時代中期から見られるが、行政の全面的改革の中で行われたのは、このときからである。これはまさに明治政府の官僚制政治の先駆をなすものでもあった。
このとき川路聖謨を勘定奉行に、永井尚志・岩瀬忠震・大久保一翁らを目付に抜擢している。このほか筒井政憲を西の丸留守居から大目付に、水野忠徳を勘定奉行兼長崎奉行に、井上清直を下田奉行に抜擢するなど、有能な官僚を次々に任命し、周辺に人材を集めていったのである。
幕府の政治組織も、開国を迎えると対外交渉や対外軍事力を補充していくため、新たな役職が増設されている。将軍に属する政事総裁職、京都守護職、陸軍総裁、海軍総裁や老中支配の外国奉行などである。
 一橋派vs南紀派
幕末の将軍継嗣問題に関しては、激烈な抗争が展開された。病弱な将軍家定の後、14代将軍の継嗣は、紀州の徳川慶福と一橋慶喜が候補者に上がったが、彦根藩主井伊直弼が大老に就任するや、その強力な支持で、安政5年(1858)慶福の将軍就任が決定した。すなわち、この慶福が14代将軍家茂である。
当時、水戸の徳川斉昭をはじめ阿部正弘、松平慶永、島津斉彬らは、慶喜を擁立し、次期将軍の実現を画策した。しかし、井伊直弼の腹心長野主膳が、紀州家の家老水野土佐守忠英と密約し、提携して慶福の擁立の為策動したといわれる。
一橋派は安政年間における開国を推進する幕吏や、慶永、斉彬、山内容堂、伊達宗城などの藩主により構成されていた。この点、まさに幕府・諸藩を通じての全国的な改革派の連合体を作っていたといえる。そこには国政を徳川氏の私政から解放しようとする革新的な傾向さえもみられたのである。しかし、これは直弼の強引な継嗣決定によって押し切られたのである。
大老井伊直弼は継嗣決定、条約調印を断行したが、これが尊攘派志士を刺戟し、安政の大獄を断行した後、万延元年(1860)3月3日、直弼自らが桜田門外で水戸藩士らによって暗殺されることになった。
 幕府の終焉
直弼死後、政局は老中安藤信正を中心に展開する。信正は公武宥和政策をとり、公武合体の達成をはかった。その結果、文久元年(1861)には、皇女和宮の江戸の将軍家への降嫁が実現した。しかし翌年1月、江戸城での婚儀の前に、坂下門下で信正が水戸浪士によって襲撃され負傷すると、4月に老中を辞職。薩摩の島津久光が公武合体と雄藩合議の構想の下に主導権を握って、軍事体制を中心とした幕政改革を行わせた。
激化する幕末の政局の中で、慶応2年(1866)大坂城で将軍家茂が21歳の若さで死去すると、水戸藩主徳川斉昭の子で一橋家を相続した慶喜が最後の15代将軍となった。まさに待望の人事であったが、結局、わずか10カ月で大政奉還となり、ここに徳川将軍家は、幕府の滅亡によって終焉を告げることとなった。

江戸幕府の政治を動かしたのは、幕閣の中枢部である。しかし、実際には幕閣の枠からはずれていた側用人や御側御用取次が重用されて政策を推進させた時代もかなりあった。また、幕政改革を行うためには、老中・若年寄体制から三奉行の役割が重視され、ときには遠国奉行や代官クラスまでブレーンに抜擢されることもあったのである。幕府政治の動向は、あくまでも固定化されたものではなく、政治・経済・社会の動きに対応し、実際には幕閣が臨機に中枢部を変形増幅していったと見ることができるのである。




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