幕府政治の移り変わり
 ~幕政改革の推進と挫折~
 


 田沼意次の時代
十代将軍家治は、幼少より聡明の誉れが高かったので、吉宗も孫の家治に大きな期待をかけていたらしい。しかし、家重から始まった将軍の権威の凋落はそのまま続き、家治の治政も、実際には老中松平武元の政治であり、やがて田沼意次が政治の実権を握っていったのである。明和4年(1767)意次は御用人となり、明和6年(1769)に老中格、同9年(1772)には老中に任じられている。
田沼意次が幕閣に権勢を張っていくと、彼は幕府の主導と統制のもとに経済界を合理的に再編成しようと、種々の新しい方策を打ち出していった。それは見方によれば、開放的な政策であり、一定の評価を与えられるものであった。しかし、幕臣の頽廃、物価の高騰、社会不安などが幕府政治への不信を募らせ、民衆の抵抗が激化し、天明3年(1783)の浅間山大噴火の影響による大飢饉などの天災が人災とうけとられ、また父とともに権勢をふるった長男で若年寄の田沼意知が翌4年に江戸城内で斬られて死亡、その2年後には意次も幕閣における発言力が弱まり、失脚してしまう。
 松平定信の政治
将軍家治には世子がいなかったが、意次の人選により御三卿の一つである一橋治済の四男家斉が養子に決まった。後の十一代将軍である。家斉の治政は天明7年(1787)から天保8年(1837)に至る、実に50年の長期に及んでいる。
田沼意次を罷免するための主役であった松平定信は、新将軍家斉のもとで老中首座となり、直ちに幕政の改革に乗り出した。天明8年には将軍補佐となり、老中・御用人・御側御用取次など幕府の中枢や将軍側近を、自らの親交のあった人々によって固めている。
定信の「寛政の改革」は、関東・東北の荒廃から農村の復興を急務とする一方、幕府が金融市場を支配し、特に江戸市場の強化、さらに倹約、風俗取締り、言論・出版の統制や、異学の禁による昌平坂学問所の刷新を行っている。定信はこの改革で有用な人材を養成し、田沼時代末期の荒廃を一応食い止めたが、在任7年で、寛政5年(1793)には老中を退職させられた。
その後、定信が推挙した老中松平信明が幕閣にいた間は、その政策が踏襲されたが、やがて老中水野出羽守忠成が幕政を支配するに至って、政情は次第に変わり、将軍家斉の父一橋治済をはじめ将軍周辺の勢力が増大していった。
 水野忠邦
天保期には大飢饉の発生や百姓一揆が激化したが、天保8年(1837)の大塩平八郎の乱は、幕閣に危機感を大いに募らせた。
やがて同12年に大御所家斉が死去すると、老中首座であった水野忠邦は、家斉の側近や有力者であった御側御用取次の水野忠篤、若年寄の林忠英、新番頭格の美濃部茂育らを罷免し、その子らをも連座させた。忠邦は、これらに代わって腹心の目付鳥居耀蔵、天文方見習兼書物奉行渋川六蔵、御金改役後藤三右衛門らの水野三羽烏、また代官羽倉簡堂用九・江川太郎左衛門英龍らをブレーンに登用し、幕政改革を推し進めた。この改革では、綱紀粛正と冗費の節約、農村復興、株仲間の解散による低物価政策などの諸政策を実施したが、江戸・大坂十里四方の上地令を巡って、改革派にも対立が生じて分裂した。そのため改革はわずか2年余りで挫折し、忠邦も失脚した。その後、忠邦は天保15年(1844)に老中首座に復活したが、わずか8カ月で辞任してしまった。




TOPページへ BACKします