幕府政治の移り変わり
 ~側用人の登場~
 


 下馬将軍から綱吉の治世へ
幕府政治は、明暦・万治・寛文・延宝期になると、秩序が安定化したのに反し、政治の運営も停滞し、機構も弛緩してくる状況が目立ってきた。
こうした中で寛文6年(1666)、三河以来の譜代最高の門閥という家格の権威を背景に、酒井雅樂守忠清が大老に就任し、幕政の主導的立場についたのである。大手門外の下馬札の付近にあったことから、人々は「下馬将軍」とよび、その権勢に対して異名を与えたほどであった。こうしてそれまで集団指導の体制をとっていた幕政は、新たに門閥大老政治を迎えることになったのである。
しかし、この下馬将軍の政治は、時代の変化に対応していくことができなかった。そのため、延宝8年(1680)綱吉が五代将軍に就任すると、「天和の治」と称する幕政を展開することになり、賞罰厳明をスローガンとした方針のもとで、酒井忠清は罷免されたのである。
綱吉の施政は、親藩や譜代大名の門閥が誇っていた家格の権威を剥奪していくことによって、将軍の権威を一層高めていこうとした。そのため、将軍擁立に功績があった堀田正俊を大老に任命するとともに、側近の地位を高めて老中に準ずる側用人の制度を設け、牧野成貞・柳沢吉保を任命することによって、いわば信頼できる腹心を持って幕府の上層部を固め、将軍の意志が末端まで忠実に貫徹していく体制を樹立していったのである。
しかしながら、この時期には、将軍の権威が強大化していくのにともなう、専制政治の支柱ともなるべき封建官僚機構があまり成長していなかったため、将軍との個人的な結びつきの強い側近政治の弊害が生じてしまい、多くの幕臣たちは将軍の気ままな言動にとかく委縮してしまう傾向が強かった。こうしたなかで、将軍綱吉の儒教的理想主義に発する「生類憐みの令」も末端に行くに従い変形して、圧政を生むことになってしまったのである。
 徳川吉宗
六代将軍家宣は、甲府中納言から将軍職に就任したので、この時代は、家宣と側用人間部詮房と侍講新井白石の個人的関係によって幕政が展開されたと言ってよい。特に白石は、政治の根本として、幕府の礼楽につとめ、具体的な政策としては、通貨改良、長崎貿易の新令施行、勘定所機構の整備や評定所の運営の改善を行い、また、訴訟処理の促進や判決の公正をはかるなど、いわば「享保の改革」の前提をなす諸政策を実施したのである。
やがて七代将軍家継の後、政治の停滞を打破するため幕政の改革を行ったのが八代将軍吉宗である。名高い「享保の改革」とは、吉宗の体制強化のための改革政治の総称であり、寛政・天保改革と並んで、三大改革の一つに挙げられる。しかし、その中で最も成功したのが、この30年に及んだ享保の幕政改革である。
吉宗は、それまでしばしば見られた側近政治を排して、譜代門閥層を優遇する姿勢を取りながら、幕府内部の人心統一をはかり、万機親裁・庶政一新の期待を担いながら、情報の把握と活発な行動により、着実に将軍の威信を高めていった。そして享保7年(1722)から老中水野忠之を財政専管の位置に就け、緊縮政策から本格的な財政再建へと改革を進めていった。幾多の困難はあったが、延享元年(1744)には、幕府直轄領の総石高463万石余、その年貢高180万石余と、江戸時代を通じ最高の石高に達することができたのである。
吉宗は将軍就任のとき、側用人を廃止し譜代門閥の重視のポーズをとるが、実際には御側御用取次という側用人と同様のポストを設け、これには紀州以来の謀臣有馬氏倫と加納久通を任じ、権力の中枢としたのである。また、三奉行や大目付以下の実務担当官僚には、足高制を設けて、思い切った人材の登用を行い、さらに政策の中枢である勘定所は勝手方と公事方の二つに分けて、各々専任の勘定奉行を配するなど、封建官僚的行政機構の整備に力を入れている。
 側用人政治の弊害
享保の改革では、庶民の生活水準の向上を軸に展開した。経済社会化現象に対応していくため、幕府は相対済し令を発し、これによって金公事の受理を一時停止して、その間に民事・刑事法典の整備に努めた。こうして後代の判例を開いた公事方御定書がつくられたのである。「享保の改革」の諸政策においては、こうした法と機構による政治が確立されたのである。
享保改革は将軍吉宗のっもとで、前半は水野忠之、後半は松平乗邑の老中が、指揮して行った改革政治であると思われているが、相対済し令のような重要な施策の例を見ると、評定所一座が原案をつくり、それに御側御用取次を通じて吉宗が加わり、意見の調整を行い、決められた事項を老中から正式に将軍に上呈し、将軍裁断のうえ、改めて老中を通して公布するという手順を踏んでいる。つまり、原案は老中ではなく、評定所一座と御側御用取次と将軍吉宗の三者によって作成されるのである。
したがって、将軍吉宗の時代の実権者は、老中が形式的な役職に封じ込められており、実際上の権限を握っていたのは有馬と加納の御側御用取次と大岡忠相らの三奉行であったという事ができる。つまり「享保の改革」を推進したのは、譜代大名の重視の姿勢を取りながらも、実際は幕閣の老中ではなかったのである。
九代将軍家重は、父吉宗には似ず、生来病弱で、言語も不明瞭であったと言われる。そのため吉宗も引退後、大御所として後見役に当たらざるを得なかったようである。こうした家重の言語を独り理解した大岡忠光が、やがて側用人として重用されることになった。この時期には、表面的には幕政も平穏であったが、やがて綱紀が緩み政治は新たな傾向が見られたのである。




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