幕府政治の移り変わり
 ~門閥譜代と新参譜代~
 


 二元政治の終焉
寛永元年(1624)、二代将軍秀忠は西の丸に移って大御所になった。そのとき、それまでの老職のうち、土井利勝・井上正就・永井尚政らを西の丸老職とした。これに対して酒井忠世・酒井忠利は、三代将軍家光の下でそのまま本丸老職となり、その後新たに稲葉正勝・阿部正次・酒井忠勝・内藤忠重らが加わった。
こうした幕閣の構成は、西の丸と本丸を中心とした、いわゆる第二次の二元政治の形態を示すことになった。二元政治は本来の幕閣の構成からすれば、過渡的なものであり、この二元政治も、寛永9年(1632)秀忠の死によって終焉を迎えた。
このとき、西の丸老職の土井利勝のみが、秀忠の遺命によって本丸に復帰したのである。利勝は、終始秀忠の側近の一人として活躍した人物であり、明敏で智略に富む性格は幕閣の筆頭として重用されていった。また、家光の補導役として将軍教育も行い、世に酒井忠世、青山忠俊とともに寛永の三輔と称されるほどだった。
 家光の寛永政治
家光の治政は、幕府の政治意識が急速に整備され、幕閣の体制が最も拡充された時期である。家光のもとにおける幕閣は、当初は、酒井忠世と土井利勝を筆頭に、家光の将軍就任後に老職となった酒井忠勝・稲葉正勝・内藤忠重らを中心として発足した。さらに寛永10年3月には、側近の若手グループである松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛・三浦正次に太田資宗・阿部重次が加わり、六人衆が成立した。これが若年寄の濫觴である。このように家光政権の幕閣の中枢は、門閥譜代と、松平信綱ら新参の若手グループによって構成されたが、これらを融和させていく為、譜代の名門彦根藩主井伊直孝を幕政に参加させている。
家光政権時代は、幕藩体制が一応安定状態に入っている。そのため幕政の基調はそれまでの政略的な干渉から、法令や制度による支配へと転換していったのである。
幕府は寛永10年から12年にかけて老中を最高機関とする行政組織、評定所などの訴訟制度を確立し、参勤交代を成文化しているが、さらに同15年には、土井利勝や酒井忠勝を大老に就任させている。翌16年にはキリシタン禁教令に始まった鎖国への道を完成しており、こうした推移のなかで、幕政においては将軍個人のもつ意味はしだいに薄れて、政治の運営は機構的なものに変わっていったのである。
 酒井忠勝
家光政権の成立は、老中政治を中核とし、有能な門閥譜代に新参譜代を側近に加えて、画期的な幕政を展開した時代である。その中で、幕閣の中枢にあり、三代家光から四代家綱の初期に至る33年間にわたり、老中・大老の要職を歴任したのは、酒井讃岐守忠勝であった。
家光は生前「予ほど果報な者はない。右の手は讃岐、左の手は伊豆である」といって、大老の忠勝と老中の松平伊豆守信綱を左右の手に例えるほど信頼したという。したがって寛永から明暦に至る期間には、忠勝の行政手腕が幕政の展開と浸透に大きな役割を果たしたのである。
幕閣が存在している以上、幕府政治を特定の個人の力に帰することはできない。にもかかわらず、長期にわたって忠勝が幕閣の筆頭的な位置にあったのはなぜだろうか。
幕府政治において、幕府の中枢にある幕閣が大幅な変更を行う事は、その推進に重大な支障をきたす恐れがある。それゆえ家光・家綱政権では、若手の新参譜代のグループの進出を期待しながら、その反面ではなお門閥の名門である酒井忠勝を重視していかねばならなかったのである。したがって、忠勝の大老就任は、新参譜代に押し上げられた形であったとしても、幕閣による老臣会議への忠勝の出席状況から見て、政策の最高責任者としての位置は不変であったとみることができる。そこが既に高齢であった土井利勝とは違っていたのである。
また忠勝への信頼は、他の老中や大老にみることができない学者としての教養を身に付けていた点にあると言ってもよい。




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