幕府政治の移り変わり ~大御所と将軍の二元政治~ |
幕府とは、朝廷から武家政権の最高位である征夷大将軍を宣下された主宰者が、政権を維持していくためにつくった政庁であり、武家政権そのものと言える。したがって、朝廷は幕府の内部には全く干渉することはない。この幕府の政治組織の中枢部にあるのが幕閣であり、ここで政策が充分に審議され、それが将軍の裁可を経て実務機関を通じて実施されていくのである。 徳川家康は、天正18年(1590)の関東入国後は、240万石という大大名になり、その経済力と軍事力は、豊臣政権下において最大の実力者となっていた。その実力を背景に、慶長5年(1605)の関ケ原の合戦における勝利によって、事実上公儀を運営する位置に就いたといえる。つまり、関ケ原戦後の諸大名への賞罰移封で、全国がほぼ家康の権力下に統一されることになった。そしてその派遣が私的権力から公的権力になったのが、家康が征夷大将軍となった慶長8年からと言える。 家康の前に権力者であった豊臣政権と徳川政権には、どのような違いがあったのだろうか? まず、秀吉は統一政権を打ち立ててはいるが、朝廷の最高の地位である関白・太政大臣に任じられ、朝旨を奉じて天下を統治するという名分によって、全国の諸大名を支配したのである。これに対して、家康はあくまでも武家政権であった鎌倉・室町幕府を継承していく方針を取り、まず政治の実権を握ってから、源氏の棟梁という系譜に拠りながら、朝廷より将軍職を与えられて、その名分を整えているのである。 この点から見ると、江戸幕府はまさしく武家政治の伝統に基づいて成立した政権であるという事ができる。しかし、豊臣・徳川政権は、その成立の基盤が、土地や人民を一元的に支配する大名領知制によることで、土地や人民が検地と兵農分離によって領主の権力下に強く支配されていることなど、まさに同質の政権であったともいえるのである。
大御所政治は、本多正信の子正純を筆頭に、成瀬正成・安藤直次・竹腰正信、それに松平正綱・板倉重昌・秋元泰朝らの新参譜代や近習出頭人を中心に、茶屋四郎次郎・角倉了以・後藤庄三郎・長谷川左兵衛等の豪商、伊奈忠次・大久保長安・彦坂元正等の代官頭、さらに天海・崇伝・林羅山らの僧侶・儒学者、外国人三浦按針(ウィルアム・アダムス)らを加え、多彩な家康側近勢力を構成し、いわば全国統治の政権として、強力に作用したのである。 これに対し、江戸の将軍政治は、家康側近の第一人者本多正信を幕府の後見人として、大久保忠隣・酒井忠世・土井利勝・安藤重信・酒井忠利・青山忠成・内藤清成ら秀忠の側近グループで固め、その政治支配は、だいたい関東を中心としながら展開していたという事ができる。 この二つの政治形態は、同じ時代にありながら全く対照的な構成を示していたことに大きな特色がある。つまり駿府大御所政治が、戦国大名的性格をそのまま受け継いでいるのに対して、江戸将軍政治は、譜代門閥によって固められ、関東総奉行をはじめ、江戸年寄(後の老中)が幕政を主宰し、他に留守居や江戸老中(後の若年寄)、町の代官(後の江戸町奉行)が置かれて政治が運営されており、そこには後に成立する幕閣の典型と言えるものを見ることができるのである。 しかし、この時期の二つの政治形態は、相対立していたものではない。むしろ相互に補完する関係にあり、家康の中央集権の強化策の一環として、駿府大御所政治が、暗に将軍の行政組織を統括できるような支配体制がつくられたとみてよい。
正信の長男正純は、駿府大御所政治で国内ではもちろん、外交関係の最高責任者であったといってよい。おそらく駿府・江戸両政権において、家康の下で政治の動向を決定したのは、この本多正信・正純父子であったであろう。 家康の晩年は「強きご政務」といわれるほど、諸方面に強い態度で臨んだ。慶長18年の代官頭大久保長安の死後の誅罰、翌19年の大久保忠隣の改易、次いで大坂の陣による豊臣家滅亡もまさにその表れであった。そして、そのことは、幕府の実権が次第に武功派譜代から、吏僚派譜代に代わっていく過程でもあったと言ってよい。 徳川幕府は巧妙で緻密な治術と長期の政策によって、一段と支配体制を整備し確立していった。その確立期は、慶長から元和を経て、寛永に至る約50年間であった。家康政権から秀忠政権に移ると、幕閣の中心は本多正純、酒井忠世、土井利勝、安藤重信、板倉勝重らに移っていった。 しかし、本多正信の死後、元和8年(1622)10月、正純は出羽最上氏改易のため山形城に受け取りに出張中、突如、居城の下野宇都宮城を取り上げられ失脚した。この失脚は、それまでの出頭人政治の終焉をつげるものであり、代わって門閥エリート集団によって幕政は運営されることになった。そしてこれを契機として封建官僚制の成立が一段と促進されることになったのである。 |