幕府政治の移り変わり
 ~将軍専制と幕府運営~
 


 庄屋仕立ての組織
江戸幕府は誰が動かしていたか。これは将軍の親裁・専制体制が確立していれば、すべて重要事項は将軍の裁断によって決定されていくことになる。しかし、実際は将軍の専制体制と言っても、独裁政治を行うことを意味しているのではない。このことはむしろ、封建官僚制の確立と表裏をなしているのである。つまり、将軍のもとでは封建官僚群が、どのように政治を行っていったかという事と密接な関係をもっているのである。このように見ると、江戸幕府の実権は、有能な家臣団や封建官僚によって握られていたという事ができる。
幕府の政治組織については、よく「庄屋仕立て」といわれるように、戦国大名松平氏の三河時代の家政組織が、所領の拡大に従って全国支配の政治機能に変化していったという考え方がある。しかし、それとは別に江戸幕府の成立期に新たに固有の封建官僚的な政治組織の原型がすでに出来上がったという見方もある。
幕府の組織の上に、将軍の親裁が行われていくのが幕府政治の基本である。しかし一般的に、幕府の首脳は老中である。老中は5,6名の複数で、城持ちの譜代大名から選ばれ、政務の全般を司り、諸大名を支配していた。この老中を補佐し、諸番組、諸役職を支配し、旗本を統制したのが若年寄である。若年寄は3名ないし5名の複数で、主に無城の譜代大名より選ばれた。
 老中・若年寄
江戸幕府の職制は、だいたいにおいて、こうした老中・若年寄を中心とした支配体制の中に組み入れられていた。ただ、この老中の上座には大老がいたが、大老は常置ではなく、酒井忠勝・酒井忠清や井伊直弼等の場合を除くと、おおむね名誉職であったといえる。
老中・若年寄は、江戸城内の御用部屋において、日常、政務をとっていた。もっとも、初期の将軍家康・秀忠・家光の三代の頃には、御用部屋は設けられておらず、中奥の将軍の御座の間近くに集まって相談していたようである。これが表向きに御用部屋が設けられるようになったのは、5代将軍綱吉の時代からである。
老中・若年寄を首脳とする吏僚組織は複数の合議制で、月番交代制がとられていた。それはあくまでも一人のものに責任が集中し、権力が独占されることを避けるためであった。
 合議体だった幕府運営
老中・若年寄は、幕政を総攬、参与する中枢機関であり、幕閣の中枢部はここにある。しかし、幕政の方針が実施に移される実務機関の最高は、寺社・町・勘定の三奉行である。特に財政を担当する勘定奉行は、地方行政を含めて、最も大きな権限をもち、全国の幕府直轄領を基盤としていた。この三奉行は別に評定所に会合して、大目付らとともに、重要な裁判の執行にあたり、後には政務の得失についても老中の諮問に答えている。こうした評定所一座の意見は幕政の運営において、次第に重きをなしていくことになったのである。
したがって、幕政の中枢部である幕閣とは、老中・若年寄を中核とした合議体であったと言ってよい。
また、将軍に近侍してその用を足すのを側衆といった。その中で幕政に大きな影響をもっていたのが、側用人と御側御用取次である。本来、側衆は政治に関して発言はしなかったが、しだいに、政務を取次ぎ、諮問に預かり大きな発言権を持つようになった。こうして、側用人が政治の実権を握り、また、大奥の勢力が幕政に大きな影響を及ぼすことがしばしばあった。
このようにみていくと、江戸幕府の政治の方向を決定していくのは、あくまでも将軍専制の政治形態をとりながら、実際には幕閣、ときには側用人や御側御用取次を加えて決められたとみてよいのである。これらは、もちろん、将軍の幕府政治への取り組み方によって、各々時代によって異なっていたという事ができる。




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