幕府政治の移り変わり
 ~農政と外交~
 


 代官頭
幕府開設に伴う農村政策はどのようなものだったのだろうか。
徳川氏の関東入国を契機として、領国経営は家康の側近グループの一翼を担った代官頭を中心に行われている。代官頭とは、三河譜代の伊奈忠次、甲斐武田氏の旧臣大久保長安、それに遠江今川氏の旧臣彦坂元正と長谷川長綱の有力な地方巧者のことである。彼らは関ケ原の戦いや、江戸幕府開設後の幕府政治に参画しながら、配下の代官・手代を指揮して、関東以外にも地方行政を拡大していった。その支配方式は陣屋支配を中心に個別に地域の開発を行うとともに、寺社領・知行宛行・伝馬手形・年貢割付・裁判関係の多くの連署の発給文書によって、権限はほぼ幕府直轄領全域に及んだのである。そして代官頭は、独自の仕法によって検地・灌漑・治水・鉱山開発など、幕府の財政基盤の拡充に努め、さらに交通政策の確立や城郭・都市の建設など幕府の政治や経済の基礎を固めたのである。
この代官頭のうち、伊奈忠次は慶長4年(1599)に駿河守、ついで備前守に叙任しているが、大久保長安は幕府開設直後に石見守に叙任し、「所務奉行(代官頭の機能の一部)」として新たな活躍を始めている。代官頭の領国支配体制はこの伊奈と大久保を中心に行っているが、大久保が慶長8年、佐渡奉行に就任してから、佐渡金銀山は空前の活況を示す事になったのである。代官頭はやがて慶長年間に病死または失脚などによって消滅するが、伊奈忠次の系譜だけは、権限を縮小しながらも、寛永年間(1624~44)には関東郡代の成立に連なるのである。
 農村支配の方針
徳川氏は慶長7年12月、地頭・代官及び百姓に対して、二つの郷村掟を関東領国に公布している。そして、翌8年3月、幕府開設直後に、この内容を一つにまとめ、関東総奉行内藤清成・青山忠成の連署で七カ条の郷村掟を再び公布している。それによると、年貢の確保を強制しながら、百姓の逃散や地頭及び代官に対する農民の弾劾権を容認しているのである。つまり、この法令の狙いは、地頭や代官の恣意的な支配を極力抑制していこうとしているのである。これが幕府開設後に示された最初の農民支配の方針であったという事ができる。
家康の側近であった本多正信に仮託された「本佐録」によると、「百姓は天下の根本なり、是を治るに法あり、先ず一人~の田地の境目を良く立て、さて、壱年の入用作食をつもらせ、其余を年貢に取べし、百姓は財の余らぬように、不足になきように治る事道也」とある。この全体の趣意は、やはり年貢の確保を前提に領主の恣意的行為をできるだけ制限し、農民生活と農民自立化を図っていこうとするものであった。このことは、農村を圧政によって荒廃させることは、かえって領主自身を破滅に追い込むことになると警戒しているのである。
こうした当初の幕政方針は、やがて五代将軍綱吉の延宝8年(1680)閏8月の法令にも受け継がれている。すなわち、代官心得としての7カ条の法令の第1条には、「民は国の本也。御代官の面々常に民の辛苦を良く察し、飢餓等の愁之なきように、万事念入に申付らるべき事」とある。つまり、民すなわち庶民は国の本となるものであるから、代官たる者は、その生活の実態をよく把握しておくことを指示しているのである。初期幕政の農村政策は、仁政的思想を含みながら、一貫してのちの幕政にも踏襲されていったのである。
 外交政策
家康の外交政策は、平和的対等の外交を原則とし、ポルトガルの対日貿易の独占体制を打開することを、当面の目標としている。したがって国交が途絶していた明との回復や対馬の宋氏を通じて朝鮮との交渉を試みるなど、外交に対する姿勢は和親・通商を第一とするものであった。そのため初期においては貿易優先の立場から、秀吉のような厳しいキリシタンの禁圧は行わず、布教に対しては黙認する態度をとっていたのである。
家康の朝鮮王朝との交渉については、禅僧「方長老口上覚書」の慶長7年の記事によると、「宗対馬守義智、江戸に伺候しける折節、家康仰に云、太閤秀吉、朝鮮征伐の後、両国の交わり断絶せり、当代朝鮮に対し更に遺恨なし、彼方和睦あらば御許容なるべし」とある。これによると、幕府開設の前年に家康は、朝鮮に恨みはないと、国交の回復の意志を示しているのである。そして江戸幕府開設後、慶長8年10月には安南大都統やカンボジア王に対し、返事によって通商や修好を認めているのである。このように幕府開設を契機として、徳川政権の構想である東アジア社会への復帰を、家康は積極的に推し進めていったのである。
徳川家康が将軍宣下を受けたことは、彼が豊臣政権の五大老の一人としての地位から脱し、武家の棟梁として、その頂点に名実ともに立つための重要な契機となった。そして、江戸幕府の開設は、政治を推進していくための組織がスタートしたことを意味するのである。江戸幕府の成立は、政治情勢や武家社会に大きな影響を与えたのは確かである。しかし、これが直ちに文化や経済、それに社会に影響を与えるようになるのは、かなりの年月を経過してからである。即ち幕府開設に伴って、江戸を中心とする都市政策、農村政策、そして外交政策には変化がみられたが、これが全国的に、また庶民の中に浸透していくのは三代将軍家光の時代以降になるのである。
幕藩制国家の成立の諸要素は、江戸幕府の開設を出発点として、家康・秀忠政権の中から積極的に作り出されていったとみるべきである。それだけに、秀忠から家光への政権の推移の過程が極めて重要な意味を持ったといえるのである。このことは、文化の面でも、安土・桃山文化の継承・発展がみられたのは寛永年間であると言われることからも明らかである。




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