幕府政治の移り変わり
 ~江戸の街づくり政策~
 


 天下普請の一環として
江戸幕府の都市政策、特に江戸城を中核とした城下町江戸の市街の拡充についてはどのようになされたのだろうか?
江戸市街の拡張工事は、慶長8年の徳川家康の征夷大将軍就任に伴う江戸幕府開設の年に開始された。さらに江戸城の拡張工事は、翌9年6月1日に発表され、やがて諸般の準備を整えて、同11年、12年の両年から大掛かりに実施されたのである。この江戸城の普請は、諸大名の将軍に対する軍役の一環として行われた、いわゆる天下普請の一環であった。それは、特に有力な外様大名の財力を消耗させるためのものでもあった。
 慶長年間の町割
城下町の拡張工事は、すでに慶長6年3月に新しい町割が着手されていた。しかい、同年閏11月2日に駿河町から出火し、全城が焼失してしまった。そのため、首府としての江戸の都市計画は、慶長8年2月の幕府開設後から再出発する事になったのである。同年3月3日には諸大名のお手伝い普請によって、街づくりに着手した。大名は1000石について人夫を一人ずつ出したので、その人夫を「千石夫」とも呼んでいる。工事はまず江戸の神田山の切り崩しを行って海面を埋め立て、隅田川河口の豊島の洲崎に接続していく下町一帯を造成したのである。そして小名木川の以南には、すでに慶長元年に開発された海辺新田があったが、幕府開設の同8年に行われた埋め立て工事によって、隅田川の河口周辺に大規模な陸地がつくられたのである。
こうして慶長年間の町割によって、現在の浜町以南、新橋付近に至る下町が開かれ、道三河岸の掘割をはじめとして、いくつかの掘割が江戸湾に向けて開通した。また、道三橋と平川の延長である堀川(日本橋川)に日本橋が架けられ、新たに江戸の中心として五街道里程の原標とされた。幕府の開設によって、全ての道は江戸へ向かうことになり、脇往還を含めて交通は一段と活発化していくことになったのである。
 徳川三代までの江戸の様子
幕府開設から6年目、慶長14年(1609)にスペイン領フィリピン諸島の臨時長官を勤めたドン・ロドリゴ・デ・ビベーロは、マニラからメキシコへの帰国途中、上総国に漂着している。その折の事を彼が記した「日本見聞録」によると、江戸の様子を次のように語っている。
「此市は住民15万人を有し、海水其岸を打ち、又市の中央に水多き川流れ、相当なる大きさの船此川に入る。但し、水深からざるがゆえに帆船は入ることを得ず。此川は分岐して多くの市街を通過し、食糧の大部分は之によりて容易に来り。(中略)市街は、皆門(木戸)を有し、人と職とに依りて区画し、一街には大工居住し、他職の者は一人も雑居せず、他街には靴工あり、鉄工あり、縫工あり、商家あり。(中略)銀商は一区を専有し、金商・絹商其他皆同様にて、他商と同街に雑居する者をみることなし。(中略)青物・果物も亦各々其区あり。而して既に述べたる物に劣らず見る価値あり、又、其の多種にして大量なると、又清潔に陳列せられたるとは買う者の嗜欲を増加す」
これが、当時の江戸の景観であるが、町方人口はだいたい15万人くらいであったようだ。すでに江戸は、海と河川による水運の便のよいことと、同職の者が集住する整然とした城下町であったことを伺うことができるのである。
江戸幕府の発展の象徴は、徳川氏の居城である江戸城の威容であり、城下町の拡充であった。江戸城と城下町の整備は、江戸開府を契機として、家康・秀忠・家光の三代にして完成するのである。この時期は、まさに幕府草創期と呼ばれる時代であったという事ができる。
しかし、この江戸城と城下町は、のちに明暦の大火以後に形成された江戸、また明和・安永期(1746~81)以後の大江戸とは、町の構造がかなり異なっていたのである。




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