1・幕府政治の移り変わり 天下支配の権限 |
江戸開幕 |
日本史において江戸幕府が開かれた意義は極めて大きい。徳川家康は慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの勝利によって覇権を確立し、天下人としての地位を不動のものにしたが、3年後の慶長8年に征夷大将軍に任じられた。これによって、政治を推進するため幕府が開設され、豊臣氏に代わって徳川氏が天下支配を制度的な形で確定したのである。これ以後、日本の近世は265年にわたって江戸時代が展開している。 江戸は徳川氏の関東入国とともに領国支配の中心に置かれたが、幕府が開設されると全国支配の一大拠点として大きく性格を変えていったのである。 |
征夷大将軍になる意義とは |
慶長8年(1603)1月21日、徳川家康に勅使権大納言広橋兼勝から征夷大将軍に任じるという内旨があった。次いで2月12日家康は伏見城において後陽成天皇の勅使参議勧修寺光豊から将軍宣下を受けたのである。その内容は右大臣、征夷大将軍、源氏長者・淳和奨学両院別当に任ぜられ、牛車・兵仗の礼遇など六種八通のものが一時に許されているのであるが、これほど多くの宣旨を同時に下された例はそれまで全くなかったのである。3月21日には家康は伏見から竣工まもない京都の二条城に入り、25日には勅使を迎え、ここで盛大な将軍宣下の賀儀を行った。時に家康62歳であった。家康はここに宿願の征夷大将軍に任じられ、はじめて江戸幕府の開設を実現することができたのである。家康は戦国争乱の時代を生きたことから武家政権の開祖である源頼朝に深く傾倒し、「吾妻鏡」を愛読したといわれる。統一政権の地位を合法化していくためにも、何よりも頼朝の事績に習って、幕府の開設を望んだのである。こうして全国の大半が幕府と大名の武家領になった江戸時代においては、幕府政治の頂点にあった将軍は外交的にも国家を代表し、国内においては大名の施政を監督し、庶民を支配する強大な権限を持つことになったのである。 朝廷が家康を源氏長者と認め、征夷大将軍に補任したのは、家康を足利将軍の後継者とみなし、武家の棟梁として、武家領の土地や人民を支配させようとしたからである。家康が江戸に幕府を開設する際、範としたのは鎌倉幕府であったが、将軍の補任させる際の衣冠兼帯とその類似性を見ると明らかに室町幕府・足利将軍制を前提としていたのである。したがって、徳川将軍の場合は、鎌倉幕府にみられた論理と伝統の上に、足利将軍性を媒介としながら、新たな継承者として登場しているのである。つまり、戦国争乱のさなかで、伝統的な貴種・棟梁に代わって、三河の地方武士団がはじめて実力をもって、「武家の棟梁」である征夷大将軍の位置を獲得したといえるのである。 |
豊臣家との「二重公儀制」 |
征夷大将軍とは、鎌倉将軍より伝統的に蓄積されてきた社会的地位、法令制定権などを含む、諸々の権限が随伴しているのである。家康はこの官職に補任されたときに、それまでの社会的地位や権限までも同時に獲得することができたのである。そして、天下支配の政治体制の変更と、豊臣系諸大名を含む全大名領主レベルでの主従関係の全面的更新を実質的に遂行する政治的効果を上げたのである。 しかし、家康が征夷大将軍に任じられた江戸幕府の開設によって、直ちに豊臣政権のそれまでの公儀体制が解消されたわけではない。なお、豊臣秀吉による関白型公儀の政治体制はは持続されており、豊臣秀頼はその権威を引き続き保持していたという見解もある。すなわち、幕府開設後も慶長年間は徳川氏と豊臣氏の二重公儀体制によっていたとみるのである。 江戸幕府の成立後も家康は、大坂の秀頼に対しては、一応、恭慶の態度を持ち続けていた。そして、翌慶長9年8月14日、家康は秀頼と共に、京都豊国社の臨時祭礼を行い、亡き太閤の神威を顕揚している。15日には後陽成天皇も女院とともに紫宸殿に出御し、庶民の踊りを見物した。だが、どういうことか諸大名の観客は一人もいなかったという。これは諸大名が徳川氏の征夷を憚ったためとみられている。このように江戸幕府の開設によって、それまでの政治情勢が変わっていったことは確かである。 |