浦賀沖にやって来た黒船
 ~物資補給の難しさ~
 


 巨大な軍艦ゆえの悩み
ペリー艦隊は巨大な蒸気軍艦であるために、燃料の石炭を大量に消費する。それがアキレス腱でもあった。地球の四分の三を回るには、燃料確保が不可欠の前提となる。外洋では石炭を節約して帆走することが多いが、一定の時間に火を入れないと釜が錆び付いてしまう。燃料を失った蒸気軍艦は「超粗大ごみ」と化す。
この航海は初めての試みであり、まだ独自の補給船(シーレーン)を持っていなかった。先行させた石炭輸送船からモーリシャスで500㌧を補給したのが、独自補給の最後であった。それではとても足りない。その後の石炭補給をどうするか、ペリーはイギリスの蒸気郵船会社P&O社(The Peninsular and Oriental Navigation Co.)から買い入れることにしていた。
P&O社とは、イギリスが国家・外交機密情報(書簡)を運ぶため創設した、蒸気船による国策の郵船会社である。創業は1873年。イギリス本国から大西洋を渡り、ジブラルタルまでの航路、さらにまだ運河のなかったスエズを陸路でつなぎ、紅海へ出て、カルカッタ、シンガポール、香港を結んだ。香港へは1845年、1849年には上海への支線も開通した。その蒸気郵船用の貯炭所では、月に平均十隻の蒸気船が補給を受けていた。
無謀ともいえる日本への航海
ペリー艦隊は、この会社から石炭と食料を購入する以外に方法がなかった。しかしセイロンのポアン・ド・ゴール港で厳しい状況を知らされる。石炭不足を理由に、外国の軍艦には1トンたりとも供給してはならないとの厳命が出ていた。シンガポールでも状況は同じだったが、幸いにも香港の石炭が不足しており、香港での返却を条件に、石炭230㌧をやっと入手した。
そればかりではない。4隻の乗組員数は約千人である。第二回来日には9隻、乗組員は約2千人の規模となった。乗組員の食料を確保しなければならない。冷蔵庫の無い時代である。保存のきく食糧だけでは足りないため、艦上で牛・羊・鶏を飼育したのだ。史料の穀物や干草が必要となる。喜望峰から北上して香港着までの寄港先は、モーリシャス、セイロン、シンガポールの三港に過ぎず、滞在日数は合わせて20日である。補給後の一航海も平均して20日間である。補給は重要課題であった。
「日本遠征」と呼んだペリー艦隊の行動は、補給面で言えば無謀ともいえる大航海であった。地球の四分の三を回る長旅と数々の苦難について、ペリー側は日本に意図的に隠した。隠したばかりか「アメリカから20日で来られる」と、まだ開かれていない太平洋航路の机上計算を根拠に、日本側にいかに近いかを強調し、援軍はすぐに来ると、日本側に強く印象づけようとしたのである。




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