2・幕府批判勢力の台頭
幕末前の不穏な情勢 

    大塩平八郎の乱
天保8年2月、大志を平八郎の乱が起こった。彼は元大坂東町奉行所与力として、また陽明学者としてもよく知られていた。
大坂庶民は、前年の大飢饉による米価の大暴騰に苦しんでいた。ところが、これに対し大坂奉行は何らの救済措置も取らず、豪商は市民の困窮をよそに、この機に乗じ財を蓄えるのに急であった。
大塩はこれらを見て義憤を感じ、私財を尽くして窮民に施し、次いで19日には一揆を起こさんと図った。しかし、計画は一味に内応者があったため事前に発覚し、止む無く19日早朝、準備未完のまま事を挙げた。
窮民を加えて膨れた一揆は、町に放火し鴻池・天王寺・平野・升屋等の豪商を襲って略奪し、ついで大坂城に迫ろうとした。しかし、その日の午後、近隣藩の応援を得た町奉行が出兵するに及んで、一揆は壊乱した。大塩はしばらく潜伏していたが、3月27日自殺。その他の一味も各地で捕えられ、厳刑に処せられた。
この乱は、従来起こっていた一揆が主として豪商・庄屋等に向かったのに対し、経済中心都市の大坂において、公然と幕府の施政に挑戦した点で注目される。鎮圧に対し、城代・奉行以下の狼狽はひどく、処置も当を失し、改めてその無策ぶりが批判を浴びた。鉄砲は錆び火縄に火がつかず、奉行自身は一揆の目前で落馬し、一時は戦死説も出るなどの失態を見せた。江戸にも一時は、大坂落城の誤報すら入ったという。
このため幕府の権威が大きく失墜したことは免れず、その今後が容易でないことを示唆するものでもあった。
    蛮社の獄 
大塩の乱と同じ年の6月末、英国船モリソン号が兵器を装備せず、若干の賜物を携えて浦賀沖に到着した。モリソン号の目的は、日本人遭難水夫7人の送還と、併せて相互の遭難海員の交換・情報の提供・通商許可獲得などであった。しかし、浦賀奉行は打払令に従い直ちに江戸に急報するとともに、警備の小田原・川越藩兵に砲撃させたので、モリソン号は入港することができなかった。そこでモリソン号は7月10日、鹿児島に入り漂流民の送還を再び交渉しようとしたが、ここでも12日に至り猛烈な砲撃を受け、むなしく基地マカオに帰った。
ところが、翌天保9年にオランダ船の提出した「風説書」によりモリソン号の実際の狙いを知った幕府は、打払令の方針の手直しを検討した。一方、この事を知った蘭学者のグループは、モリソン号打払に関連して報復等の挙が先方にあることを懸念し、打払令の行き過ぎを論じた。
しかし、これが目付役鳥居耀蔵(大の蘭学者嫌い)の耳に入り、天保10年、蘭学者グループは一網打尽となった。いわゆる蛮社の獄である。連座した渡辺崋山・高野長英・小関三英のうち、崋山・三英は最後に自刃し、長英も脱獄潜伏の後、嘉永3年自殺した。
開国か鎖国かについては、それまで識者の私論として抽象的に論じられていたが、現実にモリソン号の処置の不当を論じれば、ただちにいわゆる「御政道を批判した」ことになって、開国・鎖国論はにわかに現実味を帯び始めた。このように、識者の論議が、先の大塩の乱に次いで一転して政治上の具体的問題の批判に移ったことは、注目すべきことであった。
幕府ではこの後、老中に起用された水野忠邦が、天保の改革に着手する。





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