2・幕府批判勢力の台頭
攘夷・鎖国論の背景 

    日本に根強い「神国」意識
戦国末期、肥前大村氏が軍資金借入の担保として長崎の地をキリスト教徒の手に渡し、事実上ポルトガル領化したこと、あるいはキリスト教大名の領国において寺社仏閣が各地で破壊され始めているのを見た豊臣秀吉は、キリスト教の禁止を発令した。そして徳川の治世に入っても貿易専一を方針としたオランダ人を除き、西欧人に対する警戒心は強まりこそすれ弱まることはなかった。
加えて日本には根強い神国意識が基盤にあり、西川如見のような蘭学者ですらその主張の中で「浦安国と号するは要害堅固の儀也。細矛千足と号するは勇武全備の謂也。浦安の大城に住み千矛の武備を備えて永久に天地と共に窮りなし・・・」として、日本には四面環海の要害の地であるとして、結局は鎖国を正当化した。そして大日本史を背景にした水戸藩で神国思想は特に成長し、これが素朴な形のままで京都に流れ朝廷公卿の間に広まっていった。
また鎖国についても、例えばオランダ商館員ケンベルが日本見聞記に述べた「是の国は天産に富み、一切の生活に事を欠くことがなく、外国の産物及び器械を用いる必要は認めず、�国人の勤労によって国勢を発展せしめ、国人の勇気は外国入寇の変に当たってよく防護するに足りるので、何を好んでかともすれば奢侈・詐偽・戦争などを伴うべき外国貿易を行う必要があろう」との要旨は、一面、当時の大部分の日本人有識者の抱いていた保守的感情を代弁したものでもあった。
    尊王論 
しかし、外国船の来航や侵入に刺激を受け、神州要害堅固説は次第に薄弱となり、鎖国論・開国論共に海防を疎かにできないと強調されるようになった。だが、それはあくまでも先覚的識者の間での話で、一般の単純鎖国論者を動かすものとはならなかった。
神国論と共に尊王論が発生したのも見逃せない。その根源はやはり水戸藩である。同藩の尊王論は幕府の存在と何ら矛盾するものでなく、「幕府にして皇室を尊まば諸侯も亦幕府を崇むべく、諸侯幕府を崇めば卿太夫も亦諸侯を崇むべく、かくして上下一致し万邦協和する」というものであった。
すなわち国の中心は朝廷にあり、統括の大権は委任されて執行しているという考えであり、このような尊王論は一面では、幕府の基礎を堅くするものと考えられていたのである。
従って、水戸藩主徳川斉昭の父治紀が斉彬に教えたという「もし将軍と朝廷が争うことあれば、譜代大名は将軍側につかねばならないが、我等は将軍家如何程御尤もの事にても、天子に御向かい弓を引かせられなば少なくも将軍家に従いまつる事はせぬ心得なり。何程将軍家理ある事なりとも天子を敵と遊ばされ候ては不義のコトナレバ、我は将軍家に従うことあるまじ」という語は、極限の万一の状況を仮定した上のものであったが、将軍家がまさか尊王の姿勢を崩すことはあるまいとの前提で発言されたものであろう。
このような考え方は、尾張四代徳川吉通の遺訓にも共通しており、親藩と言えども譜代と異なる立場を示したものであった。後にまさかと思われた事態が将来して、公卿たちが理に合わぬ鎖国攘夷を主張した際に、親藩が朝廷側に立たざるを得なかったのもこれら遺訓のせいで、さらに進んで、大政奉還の源流を形作るきっかけともなった。
こうした尊王の具体的表現としては、幕府時代の禁裏御料(天皇個人の御料)の増加がある。足利時代の3千石、豊臣時代の7千石が家康時代には約1万石余となり、さらに元和9年(家光の時代)には2万石余、宝永年間(綱吉の時代)には3万石余と年々増料されている。また、上皇や女院・公卿・地下官人を含めての総合の御料もこれに伴って増額され、最後には約12万石となった。さらに不足分は銀によって補い、また、臨時の出費についてはその都度朝廷の要求に応じ必要分を計上していた。
一方、出費するからには監査もあり、この方面の金銭管理にルーズな公卿にとっては、こうした監督は大きな干渉・暴虐不敬と映った。しかし、幕府としては反幕の動きを抑えるためにも、監督の手を緩めるわけにはいかなかった。
幕府は政権獲得後も、尊王とは直接関係のない公卿体制を朝廷に残存することを認めたが、この組織が幕末の動乱の源泉の一つとなり、幕府にとって命とりの原因となったことは見逃せない。幕府がその失敗に気付いたときは、すでに後の祭りであった。
  





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