石田三成からの手紙 ③ 浅野長吉宛て |
~手紙の内容~ 昨日、家臣に丁寧な口上をいただきました。忍城の事は思惑通りに進んでいるので、先発の者は引き取りたいとのご指示でしたので、そのとおりにしました。しかしながら、城攻めの諸将は水攻めと決めてかかっているので、全く攻め寄せる気がありません。城内から半分の人数が投降してくるよう城方へ働きかけているとのことですが、そんなやり方では遅すぎるのではありませんか。もう城方の詫び言などにかまうべき時ではありません。まず攻め寄せるべきです。ご指示お待ちしております。 天正18年(1590)6月13日 浅野長吉宛 三成書状 |
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そんな三成だが、時には上司の意向に逆らうことを意見している。この書状は、三成が上司である浅野長吉(長政)に反対意見を述べているものである。三成31歳の時のものである。
三成は当初は小田原の秀吉の陣所で、その取次を行っていた。当初、別動隊を率いて関東各地の諸城の攻略の主将は浅野長吉であった。長吉はのちに五奉行筆頭になるように、秀吉の姻戚として直臣の中でも抜きんでた存在であり、長く三成の上司的立場にいた人物だ。その長吉は、一旦小田原へ召喚された。これは奥州の伊達政宗が小田原に参陣するのに伴い、その取次役をしていた長吉が呼ばれたのである。その長吉に代わり、三成が別動隊奉行として出陣する。 率いる軍勢は佐竹義宜・多賀谷重経・宇都宮国綱ら約3万。盟友大谷吉継も従軍し、後には真田昌幸も加わった。3万の兵を率いる経験は初めてであり、三成にとっては大抜擢であった。三成は5月26日に舘林城に到着。この城は30日までに開城させ、次に向かったのが忍城である。忍城についたのは6月5日頃とみられる。 その忍城攻めについては、江戸期の軍記物などで、ざっとこのような書かれ方をしている。 「3万を超える大軍を擁した三成は忍城に向かった。忍城は周りを沼・池に囲まれた要害であり、忍城主・成田氏長はこの時小田原城にいたが、城代・成田長親らを中心に3千余が立て籠もり三成を迎え撃った。城方の奮戦に業を煮やした三成は、秀吉の備中高松城攻めに倣い、この城を水攻めにする事を思いつく。近在から10万の人夫を集めた三成は、城を囲む堤を僅かかで完成させた。だがそれでも城は落ちない。やがて大雨と城方の攻撃で堤が決壊、濁流は寄せ手の三成側に襲い掛かり水攻めは失敗する。忍城は結局、三成の城攻めでは落城せず、小田原で秀吉に帰順した城主・氏長の勧告で開城したのである。大軍で攻め寄せながら城を落とせなかった三成は、その「戦下手」ぶりを嘲笑われることとなった」 この通説は、忍城攻めを取り上げた「のぼうの城」など多くの小説や映画で取り上げられているように、三成の戦下手、それに対する関東武士の勇戦、という印象が強くなってしまった。 だが、それは本当に忍城攻めの真実を語ったものなのだろうか? 冒頭の書状を振り返ると、この書状は忍城攻め開始直後の6月13日に三成が浅野長吉に発しているのだ。書状は三成の忍城到着直後のものだが、文面からすると、三成が着く前に長吉の手で忍城攻めは始まっていたようである。三成はそれを引き継いだわけである。ここで三成は水攻めを既定路線化することに反対し、より積極的な城攻めを主張している。通説と大きく異なる三成の姿がそこにある。 また三成は、城方からの投降を許すな、との意見も具申している。ここからは、秀吉方の一部に水攻めを指示する一方で、城方からの投降を促すような、馴れ合い的な対応があったことも窺える。 いずれにせよ、そこにあるのは水攻めよりももっと強硬な城攻めを主張する三成の姿である。三成は水攻めに批判的だったのである。
「忍城は堅く攻めるように言ったが、籠城しているものの命までは助けてくれ、と嘆願している者もいる。水攻めにする際には、城内には1万くらいいるだろうが、周囲が水没して荒地となる間、互いに助け、城内と小田原に籠もるものとも、縁者の老人子供などは別の城へ移し面倒を見てやるように。別奉行を遣わすには及ばない。そのこと疑わないように。」 この書状は、三成から忍城攻めの方針を尋ねられた秀吉の回答のようである。冒頭の三成書状は、この秀吉からの回答を見る前に行き違いで送られたものであろう。三成は忍城を水攻めにする事への疑問を秀吉にもぶつけたようだが、その回答としてきたのは、水攻め処置に関する細かな指示と、別奉行は送らない、忍城はお前(三成)に任せる、との秀吉の意志表示であった。尊敬する上司に「お前に任せる」と言われれば、奮い立たないわけにはいかない。秀吉が部下の扱いに長けていたことを示す一面がここにもある。 水攻めに固執する秀吉の姿はエスカレートしていく。次の書状では6月20日付で同じく三成に宛てたものである。 「水攻め普請のこと、油断なく行っているのは尤もなことだ。なお真田昌幸と浅野長吉を遣わすのでよく相談するように。普請がだいたいできたら、使者を派遣して私に見せるように」 浅野長吉がどういう立場で水攻めに加わったのかは不明だが、当時、鉢形城攻略中であった長吉は7月1日頃忍城に着いた様子である。次の書状は秀吉が7月3日に長吉に宛てたものである。 「忍城の皿尾口を破って首を30余りとったそうだが、絵図を見れば破って当然なところだ。とにかく忍城は水攻めする。その段申し付ける。」 武功を挙げた長吉を、水攻め方針違反としてかえって叱責する内容である。さらに6日付の上杉景勝宛書状は次の通り。 「小田原では氏政をはじめとして、その他の年寄ども4、5人切腹させます。ついては小田原の事は片付いたので、こちらに来ずに、忍城へ早々に行って、堤づくりをしてください。私も14,5日頃には忍城の堤を見物に行きます」 なんと、小田原攻めが終了し、北条征伐の趨勢が決まった後にもかかわらず、水攻めを継続すると述べている。水攻めに対する秀吉の非情なこだわりが見て取れる。 これら一連の書状から見れるのは、「忍城を落とす」ことそのものよりも、「城を水攻めにする」という手段にこだわった秀吉の姿である。
堤防は石田堤と言われているが、その長さの見積もりは、堤全長は最大に見積もって28㎞ほどあったと言われている。備中高松城攻めは約2.8㎞で、その10倍にもなった計算だ。 このような大規模なものになったのは、その地勢による。忍城の周囲は全くの平坦地であり、かつ取水源となる利根川・荒川も遠く、水没面積は大きくならざるを得なかったのである。三成が利根川の取水口とし、そこで先勝祈願をしたと伝わる江原観音院は、忍城の15㎞も上流に位置している。水攻めによる水没面積はざっと100平方㎞、東京ドーム二千個分である。 この堤を築くのに要した費用は、仮に堤の全長を14㎞とした場合、必要となる土砂の量は70万平方mとなる。旧陸軍の基準に照らすとこの規模の土木工事は、築堤だけで約46万人日、すなわち一日1万人の人が働いたとして46日かかる工事量という計算になる。三成は近郷から10万の人間を集めてこの工事をさせたと言われているが、それに払う費用を軍記物の記載通り、昼60文と米一升、夜百文と米一升とすると、米価換算で約130~200億円となる。当時の三成所領を5万石とすると、その年間収入の7倍を超す金額である。 水攻めと言うのは、このように多額のコストと労力を必要とするものである。そして後に残るのは泥濘と化した広大な荒地。戦後処理にも莫大な労力がいる。三成が実施を躊躇したのは当然であり、当時一介の小領主に過ぎない三成が決断できる戦略ではない。当時、それを決断し実行し得たのは、秀吉唯一人である。 秀吉はなぜ忍城を水攻めにすることんいこだわったのか。結局は、秀吉の政治的効果を狙った演出、つまり政治的パフォーマンスではなかろうか。新参諸将や新たな占領地となる関東の人々に己の力を見せつける機会、それが水攻めであった。地形をも変え得る秀吉の力を、坂東平野の人々の眼に焼き付けることのみが目的だったのだろう。 別動隊の将である浅野長吉は、当初は上総下総にある低湿地帯の、戦略的には無価値な城を盛んに攻略している。これは、秀吉の内意を受け、水攻めに適した「見せしめの城」を探す様に秀吉から内命を受けてのものだったのかもしれない。最後に忍城と言う、水攻めには不向きな城を選んだ後に、三成に引き継いだのだろうか。そうであれば長吉や秀吉が、城方の一部を投稿させて保護するという、一種なれ合いのような対応をしているのも説明がつく。 無理を重ねた要求を上司から突き付けられた三成が、冒頭の書状のように、反論したのであろう。だが、秀吉の再度の要求に三成が逆らった様子はない。その理由は、秀吉の信頼にこたえたいという思いとともに、三成が秀吉の狙った政治的目的を理解したからなのだろうか。このあとも、秀吉との考えの違いに、三成は大いに苦悩することになる。 |