朝倉義景の支配組織と家臣団構成
 ~支配区分と奉行人~
 


 支配区分
朝倉義景の時代は、戦国大名としての領国支配機構が最も整備された時代であった。しかし、これは一朝一夕にして整備充実されたものではなく、越前を平定し戦国大名として君臨した初代の朝倉孝景より五代に及ぶ歴代の国主のたゆまぬ努力によって進展したものであった。
まず、越前国内の行政支配区分をみると、敦賀郡・大野郡と、それ以外の一乗谷を中心とした諸地域の三区域に分けられていた。敦賀と大野の両郡域は、既に前代の斯波氏時代から郡司(または郡代)が存在したことが確認されるから、朝倉氏もこの制度と権限を踏襲して一族を郡司に任命した。敦賀・大野両郡司は、それぞれ郡奉行人制を置き、両郡内における裁判権や検断権(刑事犯人の検挙や事件の審理判決権限)の大部分を委任されて分割統治をしていたが、朝倉家にとって重要な外交権や軍事統帥権あ、当然、一乗谷の朝倉当主が統括するところであった。
 軍団の編制
戦国大名にとって最大の関心事は、軍備の拡充と軍団の編制であった。15世紀末の朝倉氏の兵力については、「朝倉一乗衆精兵5千・修理進(朝倉冬景)敦賀兵3千・慈視院大野兵2千、計1万人」とあり、また、越前朝倉衆は6番に分け、番毎に2千充て、「計1万2千員」とも記されているから、当時すでに朝倉氏は一族や根本被官はもちろん、国内の国人衆や地侍らの多くを統制下に収めて、その知行制に基づいて徴発された軍役を軍団に編成していたことを示すものと考えられるが、敦賀・大野両郡における軍役挑発権限は両郡司に委任されていても、朝倉当主が領国全体で掌握していた軍事権とは、その統帥権であった。
 奉行人
敦賀・大野の二郡を除いた越前の主要領域は、主に一乗谷の朝倉氏が奏者・奉行人制を施行して直接に支配したが、斯波氏時代の守護所があった府中は、前代の守護領国時代に在駐した小守護代の制を踏襲し、府中奉行人を置いた。2代目氏景の頃から青木・久原の両名が奉行人となり、明応5年頃から朝倉氏滅亡までは青木・久原の両名が府中奉行人職を踏襲した。なお、織田・安居・金津などの要地には朝倉一族が配置されて独自の支配が行われ、割拠する国衆の中には一定の自律的支配権を行使する者もあった。
国主の命を奉じて公事や行事などの政務を執行し、領国支配の重要な行政機関を担当した実務者が奉行である。延徳2年(1490)頃の朝倉貞景時代には、既に評定衆や奉行人制が置かれていたようである。明応3年の頃には「三奉行 前庭豊前守・青木三郎兵衛尉・印牧新左衛門尉」とある。
一乗谷奉行人奏書によると、奉行人の人数は時代によって一定せず、2~4名の複数によって構成され、朝倉(掃部助家)・朝倉(玄蕃助・越中守家)・魚住・河合・小泉・前波のほぼ6家が奉行職を独占して交代でこれを世襲した。このうち、両朝倉家は同名衆ではあるが、いずれも英林孝景以前に分家した庶流と考えられ、他の4家は根本被官人の前波氏を筆頭とする朝倉氏の内衆である。
一乗谷奉行人のほかに、朝倉当主の側近には奉行人と同様に同名衆や近臣衆から任命されたかなり多数の奏者衆が存在した。奏者は朝倉当主の命や意向を一乗谷奉行人に伝達する役目の他、給人・寺社や民間からの訴訟を取り次いだり、時には評定所において、その弁護役を務めることもあった。




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