朝倉義景の支配組織と家臣団構成 ~支配区分と奉行人~ |
まず、越前国内の行政支配区分をみると、敦賀郡・大野郡と、それ以外の一乗谷を中心とした諸地域の三区域に分けられていた。敦賀と大野の両郡域は、既に前代の斯波氏時代から郡司(または郡代)が存在したことが確認されるから、朝倉氏もこの制度と権限を踏襲して一族を郡司に任命した。敦賀・大野両郡司は、それぞれ郡奉行人制を置き、両郡内における裁判権や検断権(刑事犯人の検挙や事件の審理判決権限)の大部分を委任されて分割統治をしていたが、朝倉家にとって重要な外交権や軍事統帥権あ、当然、一乗谷の朝倉当主が統括するところであった。
国主の命を奉じて公事や行事などの政務を執行し、領国支配の重要な行政機関を担当した実務者が奉行である。延徳2年(1490)頃の朝倉貞景時代には、既に評定衆や奉行人制が置かれていたようである。明応3年の頃には「三奉行 前庭豊前守・青木三郎兵衛尉・印牧新左衛門尉」とある。 一乗谷奉行人奏書によると、奉行人の人数は時代によって一定せず、2~4名の複数によって構成され、朝倉(掃部助家)・朝倉(玄蕃助・越中守家)・魚住・河合・小泉・前波のほぼ6家が奉行職を独占して交代でこれを世襲した。このうち、両朝倉家は同名衆ではあるが、いずれも英林孝景以前に分家した庶流と考えられ、他の4家は根本被官人の前波氏を筆頭とする朝倉氏の内衆である。 一乗谷奉行人のほかに、朝倉当主の側近には奉行人と同様に同名衆や近臣衆から任命されたかなり多数の奏者衆が存在した。奏者は朝倉当主の命や意向を一乗谷奉行人に伝達する役目の他、給人・寺社や民間からの訴訟を取り次いだり、時には評定所において、その弁護役を務めることもあった。 |