応仁・文明の大乱は足利将軍家の継嗣問題に管領家の斯波・畠山両家の家督相続の対立が加わり、対抗する細川勝元と山名持豊(宗全)の両陣営に分かれて起こった合戦であったが、全国の守護大名は両陣営のいずれかに所属して争ったため未曽有の大乱となった。文正2年(1467)正月17日夜の京都上御霊森の合戦を前哨戦として、「応仁」と改元された5月26日に両陣営はついに激突して洛内は戦場と化した。将軍家は、初めひたすら中立を保とうとしたが、両軍は官軍・賊軍の色分けとはならず、単純にその陣地の位置関係から、細川方の東陣、山名方は西陣と呼ばれた。
乱の当初から斯波義廉とともに西軍に属して目覚ましい活躍を見せたのが朝倉孝景で、連日の合戦における豪胆で果敢な合戦ぶりは、東軍側にとって実に恐るべき、また邪魔な存在であった。東軍の細川勝元が、この孝景を自己の陣営に寝返らせようと画策し始めたのも丁度このころからであって、その経過については「朝倉家記」所収文書によってその概略を知ることが出来る。これによると、東軍への帰属を促す工作は、乱の当初から始まっており、応仁2年9月3日、「味方に参陣して忠節をいたせば、褒美があるだろう」との将軍の意を伝える書状が伊勢貞親から孝景にもたらされ、これを受けた孝景は、「本当に将軍の上意なのか」と疑ったというが、これに応えるかのように将軍足利義政の御内書も発給されたらしい。
翌文明元年(1469)7月2日の貞親書状によると、孝景はすでに東軍帰属を承知していたらしく、御内書も下付されていた。しかし、孝景の越前における動向は、第三者にとっては誠に不可解な動静としてしか受け止められず、虚報とも実説ともつかぬ様々な雑説が流れ、東軍側でも十分な状況把握ができなかったらしく、孝景の東軍帰属の態度が明確となるのは文明3年に入ってからで、5月、ついに孝景の東軍寝返りが決定的となり、21日、足利義政による越前守護補任の御内書と細川勝元の慣例副状が孝景に発給された。
越前国守護職事、任望申之旨訖、委細右京大夫可申候也
慈照院殿様 御判
越前国守護職事、任被望申之旨、被成御自筆之御書候事、面白之至候、早々可被抽軍戦候也、恐々謹言
勝元
この将軍足利義政の御内書については、これまでその真偽について種々の説があった。孝景に対する越前国の守護職補任状にっしては不信の念もぬぐいされないものもあるが、文明2年以降、孝景に対して発給された赤松政則・浦上則宗の内衆らの書状文面に常に問題として現れる語句、「只今申承候分」「今度申される条々事」「御処分の趣」「御約束」「次の一カ条の事」等に注目すると、これこそ孝景が幕府に対して東軍帰属のための何らかの条件を持ち出していたことを示すもので、将軍と孝景との間で何らかの密約が成立して、初めて孝景が東軍帰属を決断したのだろう。この密約の主体は守護公権公使の許可、すなわち半済の実施であった。半済とは国内において軍事指揮権を持つ守護に荘園や国衙領の年貢米の半分を兵糧米として徴収させる権限を将軍から認められることである。これを背景として孝景の越前平定が始まるのである。 |