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朝倉氏の系譜 ~孝景の台頭~ |
このような両者の深刻な対立関係に対して、同年2月将軍足利義政は、真西堂という僧を越前国敦賀郡の疋田に派遣して両者を説得したが、義敏方の反対で不調に終わった。この結果、合戦は直ちに再開され、前年以来、近江の小野に退陣していた関東追討軍を斯波義敏は、5月13日に突如として甲斐方の敦賀城へ出陣させたが、義敏軍は敗退してしまった。ようやく敦賀郡での合戦を突破した甲斐敏光と朝倉孝景は5月27日府中に入り、長禄3年8月11日の足羽郡和田の地において守護方の堀江利真と甲斐方との最後の決戦の日を迎えた。この決戦は守護代甲斐方の大勝利に終わったが、これは、一乗谷から出撃した朝倉孝景の軍勢との合戦であったと考えられ、長禄合戦はひとえに孝景の活躍によるものだったようだ。孝景の軍事力は侮りがたい存在となっていた。しかも堀江利真と組んだ孝景の叔父朝倉将景ら反孝景一派庶流も一掃することができたし、さらに幸運なことには、合戦の翌日の夜に甲斐方の巨頭守護代甲斐常治が突如死去したことであった。まさに、この合戦で漁夫の利を占めたのが朝倉孝景であった。
長禄合戦後、守護代職は結局は常治の子敏光に補任されたが、常治時代の盛時はもう望み得べくもなかった。一方、守護斯波義敏も長禄2年には将軍足利義政の怒りに触れて西国周防大内氏に隠退した後、その子松王丸が守護職を継承したが、寛正2年9月、その守護職もはく奪され、代わって孝景の援助のもとに、足利氏一族の渋川義廉が守護職を継承した。一方、引退した斯波義敏は赦免と帰洛の望みを再三にわたって将軍家に願い出たものの、いずれも甲斐・朝倉の強い反対によって実現しなかったが、幕府政所執事の伊勢貞親らの工作によってようやく許され、寛正6年12月ついに帰洛が実現し、翌文正元年(1466)7月24日には、斯波義廉が退けられて、義敏に斯波家の惣領職が譲渡された。これに対し、義廉方の山名・一色・土岐氏らは強い反発を示し、不穏な動きが見られたものの、義敏の復権は着々と進められ、同年8月25日には、斯波義敏に越前・尾張・遠江の三カ国拝領の将軍家御判が与えられて、義敏と親父の持種、弟の竹王の三人が幕府に出仕した。 しかし、義敏が守護職に復帰して僅か10日余の文正元年9月6日の夜、密かに挙兵の機を窺っていた反貞親派の山名勢の動きを察知した伊勢貞親父子・斯波義敏父子ら8人は、突然京都から姿を消した。文正の政変は一日にして終わり、伊勢氏党類が幕府から追放されると、山名宗全の発言権は一段と増し、翌2年正月8日には、無力な管領畠山政長を退けて斯波義廉が再び管領職に就任した。 |