朝倉氏の系譜
 ~孝景の台頭~
 


 斯波氏と甲斐氏との対立
越前朝倉氏初代広景から数えて七代目の孝景こそ、戦国大名としての越前国主初代となった人物である。孝景は正長元年(1428)4月19日、朝倉教景の長男として誕生し、幼名を小太郎と称した。ところで、この頃になると越前守護斯波氏も当主が相次いで若死にして衰勢する中で、支配の実権は宿老というべき甲斐・織田・朝倉の諸氏に次第に移っていった。享徳元年(1452)斯波義建が若年で死去して宗家の系統が断絶すると、傍系の斯波持種の子の義敏が斯波宗家の家督に迎えられた。「文正記」によると、この義敏の家督継承には守護代の甲斐常治の尽力があったからと言われるが、両者の関係は当初こそ平穏であったものの、若年の義敏と老練な常治との反目は、長禄元年(1457)には本格的な対立へと発展した。同年正月1日、将軍への出仕を拒否した斯波義敏は、突然京都東山の斯波氏の菩提寺東光寺に引きこもってしまった。この深刻な事態を打開すべく、両者の和睦工作が管領細川勝元等の仲介によって進められ、翌2年2月29日に義敏も東光寺より出寺して、両社は和睦にこぎつけた。ともかくも甲斐常治の守護代としての地位は認められたものの、義敏と甲斐との対立の背景には甲斐氏による義敏方家臣の所領横領が深く根を下ろしていたため、義敏方の家臣の所領は元の如く安堵するというのが和睦の条件であった。しかし、その実現は必ずしも円滑には行われなかったらしく、やがて両者は越前に場を移して衝突する。いわゆる長禄合戦へと進展する。
 長禄合戦
翌2年7月に越前国内に場を移して始まった斯波氏と甲斐氏との合戦は、はじめ甲斐方が優勢であったが、翌8月7日、守護方が堀江石見守利真を京都から越前へ迎え入れると俄然勢いづき、越前各所で展開した合戦は、守護方の優勢で進められた。これより先、長禄2年6月、将軍足利義政はかねてより室町幕府に反抗してきた鎌倉公方の足利成氏追討を斯波義敏と甲斐常治に命じた。これは越前における紛争の両張本人を関東へ派遣することによって、両者の抗争を少しでも沈静化しようとする将軍の思惑があったようだ。両人は関東従軍に難色を示した。再三にわたって将軍から関東出陣を促されてきた義敏も、越前における守護方の優勢さを見て安心したのか、11月下旬ようやく出陣を決意して京都を出立した。しかし、義敏の軍勢は越前の状況を窺うがの如く、途中の近江小野まで進んで動かずそのまま越年した。翌長禄3年に入ると、将軍は表立って甲斐方支援に傾いていった。
このような両者の深刻な対立関係に対して、同年2月将軍足利義政は、真西堂という僧を越前国敦賀郡の疋田に派遣して両者を説得したが、義敏方の反対で不調に終わった。この結果、合戦は直ちに再開され、前年以来、近江の小野に退陣していた関東追討軍を斯波義敏は、5月13日に突如として甲斐方の敦賀城へ出陣させたが、義敏軍は敗退してしまった。ようやく敦賀郡での合戦を突破した甲斐敏光と朝倉孝景は5月27日府中に入り、長禄3年8月11日の足羽郡和田の地において守護方の堀江利真と甲斐方との最後の決戦の日を迎えた。この決戦は守護代甲斐方の大勝利に終わったが、これは、一乗谷から出撃した朝倉孝景の軍勢との合戦であったと考えられ、長禄合戦はひとえに孝景の活躍によるものだったようだ。孝景の軍事力は侮りがたい存在となっていた。しかも堀江利真と組んだ孝景の叔父朝倉将景ら反孝景一派庶流も一掃することができたし、さらに幸運なことには、合戦の翌日の夜に甲斐方の巨頭守護代甲斐常治が突如死去したことであった。まさに、この合戦で漁夫の利を占めたのが朝倉孝景であった。
 朝倉孝景
孝景は最初教景と称し、斯波義敏を守護に迎えたとき、義敏の「敏」の偏諱を受け、一時孫右衛門尉敏景と名乗ったが、長禄合戦後間もなく斯波義敏を嫌って敏景から再び教景に戻り、官途も弾正左衛門尉と改めた。さらに寛正5年(1464)6月に興福寺により朝倉教景の「教景」という名字を呪詛されたため、「孝景」と改称した。
長禄合戦後、守護代職は結局は常治の子敏光に補任されたが、常治時代の盛時はもう望み得べくもなかった。一方、守護斯波義敏も長禄2年には将軍足利義政の怒りに触れて西国周防大内氏に隠退した後、その子松王丸が守護職を継承したが、寛正2年9月、その守護職もはく奪され、代わって孝景の援助のもとに、足利氏一族の渋川義廉が守護職を継承した。一方、引退した斯波義敏は赦免と帰洛の望みを再三にわたって将軍家に願い出たものの、いずれも甲斐・朝倉の強い反対によって実現しなかったが、幕府政所執事の伊勢貞親らの工作によってようやく許され、寛正6年12月ついに帰洛が実現し、翌文正元年(1466)7月24日には、斯波義廉が退けられて、義敏に斯波家の惣領職が譲渡された。これに対し、義廉方の山名・一色・土岐氏らは強い反発を示し、不穏な動きが見られたものの、義敏の復権は着々と進められ、同年8月25日には、斯波義敏に越前・尾張・遠江の三カ国拝領の将軍家御判が与えられて、義敏と親父の持種、弟の竹王の三人が幕府に出仕した。
しかし、義敏が守護職に復帰して僅か10日余の文正元年9月6日の夜、密かに挙兵の機を窺っていた反貞親派の山名勢の動きを察知した伊勢貞親父子・斯波義敏父子ら8人は、突然京都から姿を消した。文正の政変は一日にして終わり、伊勢氏党類が幕府から追放されると、山名宗全の発言権は一段と増し、翌2年正月8日には、無力な管領畠山政長を退けて斯波義廉が再び管領職に就任した。




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