朝倉氏の系譜
 ~草創期の朝倉氏~
 


 但馬から越前へ
越前朝倉氏の祖は広景という人物である。源頼朝時代の朝倉高清の子孫のうち末流である八木氏のさらに分族である。この広景が、どのような経緯で越前に根拠を移したのかが明らかではない。「朝倉始末記」では、正慶2年(1333)4月下旬、足利尊氏が丹波国の篠村八幡社の社前において反北条氏の旗印を挙げたとき、広景がその幕下に馳せ参じ、斯波高経の指揮下に属して越前に転戦したというが、「壬生本朝倉家譜」では、そのことは一切記せず、広景は夢のお告げに従って越前に行脚し、嘉元元年(1303)に足羽荘黒丸館の一条殿息女と夫婦となり、当荘の代官になったとして、越前入国には30年ほどの相違がある。朝倉系図では、広景は文和元年(1351)2月29日、98歳の高齢で死去したとされる。天文20年(1551)に二百年忌を営んだという記録もあり、広景は実在した人物と思われる。
建武2年(1335)11月、足利尊氏の離反によって建武新政が破綻すると、越前においては南北両軍の激しい合戦が展開されたが、暦応元年(1338)に南朝方の新田義貞が藤島の地で戦死し、同3年には弟の脇屋義助おその軍勢を越前から退去させると、越前はほぼ北朝方の支配下にはいった。越前守護の高経は庶流とはいえ足利氏一門として高い門地を誇っていたものの、尊氏からの越前平定の恩賞が期待したほどではなかったため、次第に反尊氏派に傾斜して、観応の騒乱には足利直義方に組し、その後、いったんは幕府に復帰した高経も、足利直冬が南党を糾合して幕府に反旗を翻すと、文和4年(1355)再び直冬方に与同して挙兵した。
 越前に定着
越前朝倉氏の草創期における活躍が史料的に確認できるのは、広景の子高景の時代からである。
南北朝の騒乱を経て越前に確実に根を下ろした朝倉氏は、高景の時代には着実に土着節として成長し、内乱期に乗じて在地領主性を高めながら、やがて典型的な新国人層に成長していった。「太平記」によれば、洛中合戦で文和4年2月15日の合戦の際、高景が直冬党斯波方にあって、幕府軍と戦い、その目覚ましい戦いぶりが叙述されている。洛中合戦は直冬側の敗北に終わり、その翌年正月に斯波高経は再度幕府に復帰している。この翌年の延文2年(1357)10月2日、高景は足利尊氏から「越前国足羽荘預所職」が宛がわれている。
延文3年4月、将軍尊氏が死没し、二代将軍となった義詮から信任を得た斯波氏は、幕政運営に大きく関与して権勢を誇った。しかし、貞治5年(1366)8月8日の深夜、突如として将軍義詮は斯波高経の治罰を命じて軍勢を召集。翌9日、高経ら一族は自邸を焼き払い、京都から亡命して、越前の杣山城に籠城して幕府軍に抵抗した。これに対して幕府は、斯波氏の越前守護職をはく奪して、畠山義深に改めて補任すると同時に、直ちに朝倉高景らに対しても軍勢催促状を発給した。そして、斯波氏及びこれに内通する者の所領所職を没収し、これを幕府に内応した寺社や勲功を立てた者に宛がったが、同年11月6日、高景は将軍義詮から「越前国宇坂荘・棗荘・東郷荘・坂南本荘・河南下郷・木部嶋・中野郷」の七か所の地頭職が宛がわれた。これらの庄豪のほとんどは現在の福井市域に相当する足羽郡から坂井郡にかけて散在し、その多くは、やがて朝倉一門庶流の根本所領・知行地に変貌していくのである。
 高景の活躍
斯波高経が貞治6年7月13日に杣山城で死去すると、その子義将は9月に早くも赦免され、幕府に復帰した。永徳元年(1381)6月までに宿願の旧分国越前国守護職も回復し、管領職に就任し、三代将軍義満を補佐して幕政に確固たる地位を築いた。このように幕政の中枢を占めた義将は、管領という要職を背景に管国に対しても強力な守護領国制を展開し、守護代には斯波家の執事甲斐氏を恩補するなど、高経期とは違って在地国人層の被官化も進展したと思われる。しかし、高経が幕府内部における権勢拡張にもっぱら没頭した結果、在地国人層に対する統制力の弱さを暴露した時代の中で、高景は斯波氏とは一歩距離を置いた独立性の強い国人として成長し、積極的な荘園侵略を進める一方、庶子の弾正忠弼景を幕府に勤仕せしめるなど、将軍家への接近策も図っていた。高景の荘園侵略もますます顕著となり、延文5年9月6日付の「御挙状等執筆印付」では、坂井郡の北部を占める興福寺の荘園、河口荘を侵略した高景が幕府に訴えられているが、高景の荘園侵略はこれのみに限らず、東は大野郡泉荘・小山荘に、南は今南西郡にまで及んでいる。
高景は応安5年(1371)5月に、59歳で死去した。朝倉氏は積極的に越前に勢力を扶植してきたためか、斯波氏による新しい権力編成の過程の中で疎外されていき、斯波氏の一被官層に転身していった。明徳3年(1392)8月28日、相国寺供養に臨む将軍足利義満に供奉した諸将やその隋臣を記した「相国寺供奉記」には、朝倉氏は一人も参じていないことがわかっている。明らかに斯波氏から冷遇された結果とされている。その後、高景の後は氏景、為景、教景と続き、この教景の嫡子が戦国期に台頭する7代目孝景となる。




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